声優道

超ベテラン声優からあなたへ、声優になるための極意を伝授します。


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大平透の声優道

日本の声優界の草分け的存在であり、現在『大平プロダクション』『大平透声優ゼミナール』を主催し、後進の育成に力を注いでいる大平透さん。さまざまな代表作にまつわるエピソードや、これまで歩んできた声優道を3回に分けてお送りします。

プロフィール

大平透 おおひらとおる…9月24日生まれ。2016年4月12日没。
代表作はアニメ『スーパーマン』(ク ラーク・ケント/スーパーマン)、『ハクション大魔王』(魔王)、『笑ゥせぇるすまん』(喪黒福造)、ドラマ『マグマ大使』(ゴア)、海外ドラマ『スパイ大作戦』シリーズ(指令の声)、『スター・ウォーズ』シリーズ(ダース・ベイダー)ほか多数。

①ラジオの番組専属アナウンサーからスタートして役者の道へ

ラジオ番組専属アナウンサーからスタートして役者の道へ

大平透

私はもともと明治大学の野球部にいたんだけど、無理がたたって結核を患い、3年間休学しました。身体もよくなり、そろそろ復学しようという時期にね、当時まだテレビはなかったんだけど、ラジオの番組で専属アナウンサーの募集をしていたんですよ。それを受けてみろ、と親父に言われてね。ド素人だったのに試験を受けたんです。それが『ルーテルアワー』という宗教放送の番組でした。

私は当時、『笑ウせぇるすまん』の喪黒福造みたいな低~い声でね。今はみんなが聞きやすいようにキーを上げたりもしているけど、当時は低い声しか出なかった。でも『ルーテルアワー』ってキリスト教の番組だったから、信頼度という点では低音が良かったのかな。これに合格して専属アナウンサーになりました。1952年のことです。
その2年後の1954年にフリーアナになり、ニッポン放送の制作プロデューサーも経験しました。それからテレビの時代がやってきて、1955年にTBSがテレビ劇団員を募集していたんですよ。そのときは2400人くらい受けて20人くらい合格したのかな。私もそれを受けて20人の中に入っちゃった(笑)。私の場合、いわゆるラジオがスタートで、途中からテレビ劇団員として役者をやるようになったわけです。その頃はまだ“声優”という言い方はなくて、俳優、役者だったんですよ。

 

『スーパーマン』で驚異の視聴率74%をマーク! 一躍スターダムに

大平透私がTBS劇団に入団した1955年に『スーパーマン』というアニメ番組がアメリカからやってきて、その吹き替えを担当しました。最初は5分番組だったから、スーパーマンも悪役も女性の声もナレーションも、一人で何役もこなしてね。その翌年に30分番組のテレビシリーズ『スーパーマン』がきて、その吹き替えも引き続きやることになりました。

この頃のアニメの吹き替えは生放送だったんですよ。当時はちゃんとした録音技術がなくて、仮に録音しても再生時に絵と音がズレちゃうんですよね。だから「生でやれ」って。生はねぇ、大変でしたよ。普通の家の台所くらいの小さいアナウンスブースに、20人くらいの役者が台本を持って入ってね。もう狭いから、ぶつかって台本を落っことしちゃうんですよ。自分のセリフの番なのに台本を落として「あわわわ」ってなってると、次の役者もセリフが言えなくて「あわわわ」ってなって、みんな「あわわわ」ばっかりで進んじゃうの(笑)。生だからやり直しもきかないし。
でも誰かが頑張って自分のセリフから立て直すと、うまくいくんですよね。だから「もう、他人のセリフは聞くな!」と。「自分の番がきたら、意味が合おうが合うまいがしゃべれ!」って決めてやってました(笑)。あと、「前の役者のセリフが後ろにこぼれても、かまわず食っちまえ」ってね。というのは、後ろにこぼれたセリフを待っていると、自分のセリフがどんどん遅れていっちゃうから。意味が通じようが通じまいが、食えって。そういう時代に私たちはドラマをやっていたわけです。

ところが、その『スーパーマン』が大ヒットしてね。なんと最高視聴率74%を獲ったんですよ。1日24時間のうち5~6時間しかテレビ放送がなくて、多くの人々が駅前の街頭テレビに集まって見ていた時代。その頃、日本テレビの力道山(プロレス)、NHKの『金語楼劇場・おとらさん』、そしてTBSの『スーパーマン』の三つが人気を競っていました。番組が当たったお陰で、私はどこに行っても「スーパーマン、スーパーマン」って言われるようになりました。でもどんなに番組がヒットしても収入には関係なかったですね。給料制でしたから。当時はアナウンサーが月給1~2万円の時代。われわれ役者の給料は最初が5000円で、源泉徴収されて4500円。半年経って仮契約してやっと8000円とか、そのくらいでした。TBS劇団の頃は、食うや食わずの生活でしたね(笑)。

『スーパーマン』の後も、いいアニメや映画作品がいっぱい外国から来ましてね。われわれ役者はいろんな作品の吹き替えをやっていたわけですが、この頃から日本の吹き替えは評判良かったんですよ。一度アメリカ人の陸軍大佐が『スーパーマン』の吹き替えの現場に現れてね、「日本人は器用だ」って驚いていました。私は後に『バンビ』『わんわん物語』といったディズニー作品にも出ていますが、その頃、ディズニーが「日本の吹き替えはナンバーワン」だと言ってくれたんです。それは口が合う、合わないだけじゃなくて、「ハート=心が入っているから」だって。うれしかったですね。芝居する方は大変でしたけど(笑)。さて1958年にTBSが劇団を解散し、私はフリーランスになりました。その5年後の1963年に大平プロダクションを設立するわけです。この頃から『ハクション大魔王』など、タツノコプロのアニメの仕事をたくさんやるようになっていきます。

先輩から学ぼう!

声優相談室、柴田がカツ
最強声優データベース、声優名鑑

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