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【声優道】草尾毅さん「技術だけの声優がぶち当たる壁」

『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』が3月9日から期間限定で無料公開中!
臨時休校などで自宅で過ごす学生の方々へ向けて3月9日~4月5日までの期間で随時配信予定となっている。

アニメや吹き替えといった枠にとどまらず、アーティスト活動やテレビ出演など活躍の場を広げ、今や人気の職業となっている「声優」。そんな声優文化・アニメ文化の礎を築き、次世代の声優たちを導いてきたレジェンド声優たちの貴重なアフレコ秘話、共演者とのエピソードなど、ここでしか聞けない貴重なお話が満載。

それぞれが“声優”という仕事を始めたキッカケとは……。

声優ファン・声優志望者だけでなく、社会に出る前の若者、また社会人として日々奮闘するすべての人へのメッセージとなるインタビューは必見です。

技術だけの声優がぶち当たる壁

▼大学受験の失敗で自分の将来を考え直した
▼養成所に通ってわかった「声優」という仕事の真実
▼声優事務所に所属したのに、声の仕事が来ない!
▼メインキャラクターに抜擢されるも 右も左もわからない日々……
▼声優ユニットの走りとなった『N.G.FIVE』の思い出
▼自分なりに試行錯誤して役作りしたのでファンからの励ましの声はうれしかった
▼言葉が通じなくても想いは伝わっていく
▼「演じるとは何か」の土台を作らないと声優として生き残ることはできない

【プロフィール】
草尾毅(くさおたけし)
11月20日生まれ。青二プロダクション所属。主な出演作は、『鎧伝サムライトルーパー』(真田遼)、『NG騎士ラムネ&40』(馬場ラムネ)、『ドラゴンボール』(トランクス)、『SLAM DUNK』(桜木花道)、『幻想魔伝 最遊記』(紅孩児)、『D・N・ANGEL』(クラッド)、『Yes!プリキュア5』(ココ/小々田コージ)、『戦国無双シリーズ』(真田幸村)、『CHUCK』(チャック)、レオナルド・ディカプリオの吹き替えほか多数。

大学受験の失敗で自分の将来を考え直した

僕が声優という仕事を知ったのは小学生の頃です。その頃はちょうど『宇宙戦艦ヤマト』から声優ブームが起きて、いわゆる声優と呼ばれる方々が雑誌に顔を出されたりして、「子供の頃に観ていたテレビ漫画のあのキャラクターは、こんな人が演じていたんだ」とびっくりしてみたりといったことがありました。その後、中学のクラスメイトで隣の席になったサイトウくんが、今でいうアニメマニアだったんです。

彼が、当時創刊されたばかりのアニメ雑誌を学校に持ってきたりして、いろいろ教わるうちにアニメに詳しくなってました。彼は非常に絵もうまくて、授業中に必死でノートをとっているのかと思ったら、マンガを描いているんですね。それを見て、「マンガってこう描くのか」と感心して僕もまねしたりしてました。サイトウくんとは1年でクラスが別になり、その後は付き合いもなくなってしまうんですが、そんな経験が、僕が声優になりたいと思った原点かもしれません。

直接的なきっかけは、大学受験ですね。高校時代の多感な草尾少年は、学級委員もやっていたりして外側は優等生だったんですが、内面はけっこうねじ曲がっていて、「何で勉強をするんだろう」なんて考えていたんです。将来の目標があるなら、それに必要な分野だけ勉強すればいいのに、国語や数学など全部の教科を学んで総合点なんかで競ってみても、自分の将来にどうつながるのかわからなくなってしまったんです。そういう勉強の意義を見失ってからはいっさい勉強しなくなって、成績は学年でもかなり下のほうをさまよっていました。やる気はあるんだけど、何をしていいかわからなくて、エネルギーが空回りしているような高校生だったんです。

そんな感じでまったく勉強をしなかったもので、大学受験をする段になって友達と同じ大学を受けてみたんですが、見事に落ちました。そこで就職するっていう道もあったんですが、この機会に自分の将来をどうするかきちんと考えてみようと思い、1年間浪人することにしたんです。そのときに思いついたのが、「10代のメモリアルになるようなことをしたい」でした。

養成所に通ってわかった「声優」という仕事の真実

今から振り返ると、どうも僕はTVタレントになりたかったみたいなんです。役者でもなく、お笑い芸人でもなく、クイズ番組とかでよく見るようなお茶の間の人気者。僕はいわゆるテレビっ子の世代なので、何となくそういうテレビに出る人になりたいなと思っていたようなんです。ただ、テレビに出たいと思っても演劇経験があるわけでもないし、何をどうしたらテレビに出る人になれるのかまったくわからなかったんです。それでオーディション雑誌みたいなものを買ってきたら、その中に「声優養成所」っていう項目がありました。それを見て「体を使っての芝居ができなくても、声だけだったらイケるんじゃないか」なんて思ったんです。1年間アルバイトをしながらいろいろと考えました。

そのうちまた受験の季節が巡ってくるわけですが、まだ自分の中に「声優から始めてみよう」という気持ちが残ってました。そこで改めて声優養成所の資料を見ていて、青二プロダクション付属の青二塾を見つけました。養成期間が1年間で、1年後には声優になれるのかなれないのか白黒はっきりする、学費もびっくりするほど高くはない、大手プロダクション付属なので多分怪しいところではなさそうなんだけど、専門学校じゃないのでダメだったときには資格も何も残らない……そういったことをぐるぐる考えた末、清水の舞台から飛び降りるつもりで入塾試験を受けたんです。

無事に合格通知をもらって右も左もわからないままこの世界に飛び込んだんですが、入塾して初めて生で声優さんを見て、声だけで表現するとはどういうことなのかを知りました。最初は「声の仕事から始めて、テレビに出られるまでにのし上がってやる」くらいのことを考えていたわけですが、すみません、ナメてました。本当に失礼いたしました。そこから心を入れ替えて頑張ったわけなんですが、養成所って何も教えてくれないんですよ。

こういう言い方をすると誤解されそうですけど、あえて言います。養成所は何も教えてくれません。学生時代のように授業を聞いて、与えられた課題をただクリアしていけば声優になれるわけじゃないんです。技術よりも「演じるとはこういうことなんだ」という精神を教えることに主眼を置いているんでしょうけれど、「演じるとは何か」「表現とは何か」なんて1年くらいで教えられたら誰も苦労しないんです。一生を懸けて追求するためのきっかけとなるようなこと、そのために最低限必要なことを教えてくれるのが養成所なんです。そこからスタートして、自分で四苦八苦しながら身に付けていくしかないんですね。僕自身もそれがわかったときには、がく然としました。

声優事務所に所属したのに、声の仕事が来ない!

僕は青二塾を卒業して、青二プロダクションにジュニア所属という形で3年くらい、その後2年くらい準所属を続けてから、やっと正式所属になったんです。ただ、プロダクションに所属できたからといって仕事が来るわけじゃないし、下手をすると一生バイト生活なんです。だから僕は、どこで見切りをつけようか、どこでタレントにシフトしようかと考えてました。当時はジュニア所属になってもまったく仕事が来ないのが普通で、2年目になるときに優秀な人だけオーディションの話が来て、そのオーディションで制作スタッフさんの目に留まれば「村人A」とかガヤ(※1)で使ってもらえる、そんな時代でした。

僕の初仕事はジュニア所属になってから2カ月ほどたった6月。指定された場所に朝6時に行ってみたら、同期のジュニア全員やほかの事務所の若手など100人くらい集まっているんです。そこからマイクロバスに乗せられて廃工場に連れて行かれて、『赤い眼鏡』というVシネマのエキストラで死体役をやりました。実際の撮影は5分くらいなんですが、出番が来たのは夕方でした。ガレキとか折れ釘とかがあって、こんなところにうっかり寝そべったらケガしそうっていう状況で、「皆さん死体ですから絶対に動かないでください」と言われて5分間。翌日も同じ現場で、今度は死体になる直前のシーン。それが僕の初仕事でした。

その後にもらったのが、着ぐるみ人形劇団こぐま座(※2)さんのお仕事でした。劇団員さんから手ぬぐいの巻き方、着ぐるみの着方、使った後の片づけ方を教わり、録音されたテープに合わせてのフリの稽古をして、翌日から各地の幼稚園でショーを見せるという仕事が始まりました。僕が最初に入ったのは鹿の後ろ足だったんですが、周囲も見えない真っ暗な中で前足の人にしがみついて歩くというハードなもの。その次にもらった役が『ヘンゼルとグレーテル』の馬の後ろ足でした。

それから、遊園地のマスコットキャラクターとかショーのメインキャラクターのお友達とか、いろいろな着ぐるみの経験を積んで、ついには司会のお兄さん役にまでのぼり詰めましたよ。温泉施設の大広間でショーをやったときは、幕が開いてみたらお客さんが誰もいないんです。どうするんだ?と思ったんですが、何となく始まってしまったので、そのまま予定どおりに続けていたんです。それで最後まで誰一人見てないところでショーをやりました。本当に経験値が上がりましたね。暑いしハードなお仕事だったんですが、楽しかったし、すごくいい勉強をさせてもらったと今では感謝しています。

着ぐるみの仕事では、テレビ東京系で放映していた『タックス君の税Q&A』という5分番組で、タックス君というロボットの中にも入りました。ところがそのロボットがものすごく頑丈で、総重量が20キロ以上あるんです。しかもテレビ東京さんもそういう番組を作るのが初めてだったので、撮影チームも何をどうしていいかわからない状態。なので、タックス君の動きも全部僕が考えて「こっちから画面に入ってきて、こう動きますね」みたいに演じていました。2時間くらい飲まず食わずで中に入っていて、死にそうになったこともありましたね。今でも「僕がいちばんうまくタックス君を動かせるんだ」くらいに思っています(笑)。

そんな生活を1年ほど続けながら、「声の事務所に入ったはずなのに、いつまで着ぐるみの仕事を続けるんだろう」と思っていました。

※1:アニメーションや洋画のアフレコの際に、「その他大勢」として声をあてること、またはその音声のこと

※2:1969年に創立されたぬいぐるみ人形劇団。全国の幼稚園などのミニ公演から劇場まで幅広く活動している

メインキャラクターに抜擢されるも 右も左もわからない日々……

ジュニア所属になって半年くらいした頃に、劇場アニメ『AKIRA』のオーディションがあったんです。それを受けたら何と、主人公の友人・甲斐役をいただくことができました。ジュニア所属の駆け出しが役をとるなんてものすごい快挙だったんですけど、『AKIRA』がプレスコ作品(※3)で1年半くらいかけて録音していたことと、録音と並行して着ぐるみの仕事を続けていたこともあって、快挙なはずがうやむやになっちゃいました(笑)。

同じ年の秋に『JUNK BOY』というOVAのオーディションがあって、僕が何と主人公役に大抜擢されたんですが、それも本当に前代未聞の快挙だったんですよ。当時の人気声優といえば劇団出身で演技経験が豊富な人がほとんどだったので、僕のような養成所出身者は「演技のエの字も知らないひよっ子」みたいに思われていたんです。それが主役をとったということで、僕としては拍手喝采の気分ですよね。ところが事務所に台本を受け取りに行ったら担当デスクに呼ばれて、「先輩を差し置いていちばん最初に名前が書いてあるって、どういうことかわかるよね。しくじったらタダじゃおかないから」って言うんですよ(笑)。もう「頑張ります」って言うしかないじゃないですか。新人の扱いなんてそのくらい厳しい時代だったんです。

その後、翌年の4月から放映されるTVアニメ『鎧伝サムライトルーパー』のオーディションで主人公に選んでいただきました。今でこそ新人がレギュラーで現場に入るとなると、マネージャーが喜々として毎週付いてきてくださるんですが、『鎧伝サムライトルーパー』では青二から出演しているのが僕一人ということもあって、マネージャーが来たのは第1話と、同じ事務所の先輩がゲスト出演した回だけでした。右も左もわからないジュニア所属の小僧が、ほかの事務所の諸先輩方の中に放り込まれて、毎週どうしようという状態でした。どう立ち回って、どう対処して、どう芝居したらいいのか全部自分で考えなきゃいけませんでした。

※3:prescoring作品の略で、セリフを先行して収録する手法の作品

声優ユニットの走りとなった『N.G.FIVE』の思い出

『鎧伝サムライトルーパー』からは「N.G.FIVE」というユニットも生まれました。当時、『鎧伝サムライトルーパー』がテレビ局のミスで二重放送されてしまうという前代未聞の事件があったんです。それが新聞に載ったときに見出しに「人気アニメ」と書かれていたので、世間の人が人気だと勘違いしたんじゃないかと僕は思っているんですけど(笑)、何となく徐々に人気が出てきている手応えを感じていました。それでOVAシリーズを2本作ることになったんですが、放映終了から半年間ほどの時間が空いてしまうので、その間にせっかくの人気を落とすのはまずいという話から、じゃあ何かやるか、で始まったのが「N.G.FIVE」です。

トルーパーチーム最年長の竹村拓さんが中心になって、事務所のしがらみなど関係なく自分たちで創作活動ができるユニットを作ったんです。それが急にドッカンと人気が出ちゃったものだから、事務所も困ったと思いますよ。事務所側から仕掛けた企画だったら対応できたかもしれないけど、誰も知らないところで急に人気が出ちゃったし、ジュニア所属の声優をどう扱ったものかノウハウもなかった時代ですからね。それでも僕は仕事があることがうれしかったです。

今では事務所を越えた声優ユニットもたくさんありますが、当時は前例がないことだったので、僕は「こんなユニットをやりたいんです」という企画書を作って事務所に持って行ったんです。そのころの青二プロダクションの専務が「次代を担う若手を育成するべきだ」という信念をもっていらっしゃった方で、「前例もないし、いろいろなところに迷惑をかけるだろうことはわかっている。けれど若手がこういう話を持ってくるようでなければ、この先の声優業界はない」と背中を押してくださったんです。まあ一足飛びに専務に話を持って行っちゃったせいで、後からマネージャーにガッツリ締められましたけど。そのうちにさまざまな大人が入ってきて、CDを出すとかビデオを撮るとかいう話になっていきました。途中までは僕らも楽しくやっていたんですが、オトナの事情が絡んでくるとどうしてもギクシャクするじゃないですか。そのまま続けていったら個人個人がバラバラになって終わるのが目に見えていたので、ケンカ別れする前に解散ということにしました。だから活動期間は2年弱とかなり短いんです。

自分なりに試行錯誤して役作りしたのでファンからの励ましの声はうれしかった

僕のことを「下積みもせずに最初から売れて、その後も二枚目の役ばかり演じている」と思っている方もいるんですが、バカにされ、蔑まれ、地の底をはいずるような思いもしながらやってきたことが、何とか形になっているだけなんです。だから、テレビの前で視聴者だった頃とさまざまなものの見方も変わりましたね。僕が今も声優業界で生き残っていられるのは、その時代に「何をしたらいいのか」「どこを頑張ればいいのか」という経験を積ませてもらったからだと思っています。苦しくも楽しい青春時代でしたね。

その後、さまざまな役を演じさせていただきましたが、演じるうえでの転機になったのは『NG騎士ラムネ&40』のラムネ役ですね。ラムネの設定は小学3年生。すでに20代も中盤になった男が小学生を演じるって、いったいどうしたらいいのかと思いました。僕としてはかなり考えて演技を作っていったんですが、ファンの方がすごく好意的に受け止めてくださったんです。

僕は同時期に『ドラゴンボールZ』でトランクスを演じていましたが、子供時代の声も僕があてているんです。海外のイベントで「トランクス役を演じている」と言うと、「子供時代は誰が演じているの?」と聞かれるんですが、「それも僕だよ」と言うと「クレイジー!」と驚かれるんです。ほとんどの海外版では、青年期を男性声優、少年期を女性声優が演じてるようなので、両方とも一人で演じているというのが信じられないようですね。でも実はどんな役であっても、自分なりの挑戦をしているんです。『SLAM DUNK』の桜木花道を演じたときにも、「これって本当に草尾が演じているの?」と思った人が多かったみたいですが、ジュニアのときから、僕は自分なりに試行錯誤して悩んで考えて役作りしてきたので、もっと褒めてほしかったんですよ。『AKIRA』のオーディションに受かったときから、ずっと下手くそなりに頑張ってきたという想いがあったので、できれば事務所の人などの身内に褒めてもらいたかったんです。なかにはずっと見ていてくれた人もいるだろうし、評価もしてくれていたとは思うんですが、やはり言葉として聞きたいじゃないですか。そんなとき、ファンの方からの声だったりお手紙だったりというのが、僕にとっては本当に救いでした。

言葉が通じなくても想いは伝わっていく

「N.G.FIVE」のときはドカーンと人気が出ちゃったせいで、僕がものすごく生意気でワガママなヤツという印象をもっている方もいらっしゃるんですよね。たしかに20代の頃は声優業界で生き残っていくために「ここで引いたら負けだ」みたいに構えていた部分はありますが、実際には納得のいかない仕事でも頼み込まれて受けることも多かったし、どんなに不満があってもお客様の前ではできる限りの最高のパフォーマンスを見せてきました。愚痴みたいになっちゃいますけど、あのときもうちょっと環境が整っていたら、時代が違っていたらという残念な気持ちはありますね。でもそういう経験があったからこそ、今笑えているし、笑って話せるように努力もしてきたつもりです。

僕らだけじゃなくて、先輩方の話を聞くと、皆さんそれぞれの時代でそういう思いを味わってきているんです。もう声優という仕事が生まれた頃から今まで、ずっとそういう状況が続いているんです。これからこの業界に入ってくる人も、そういう納得のいかない思いをして気持ちがくじけてしまうことがあるかと思います。でも、そういう業界なんです。声優業界に限らず、理不尽な思いをすることはどんな仕事でもあると思います。そんな状況を変えたいと思うなら、声優だけでなく、マネージャーやこの業界を取り巻く人、みんなが一丸となって行動しないとダメでしょうね。それが今後の声優さんたちに残されている課題だと思います。僕らはそこまでのエネルギーはなかったけど、業界の理不尽さを表面化させるという意味で少しは役に立てたんじゃないかな。そんな状況のなかで生きていくには、自分の夢を忘れずに頑張っていくしかないのかなと思いますね。

話はちょっと飛ぶんですが、先日、上海のイベントに参加してきたんです。そこでもこういう話をさせていただくために、スタッフの友達にお願いして『NG騎士ラムネ&40』の主題歌「めざせ!1番!!」を歌わせてもらったんです。歌詞の内容が「絶対に自分を信じて諦めるな」というものだったからなんですが、会場に集まった上海のファンの方たちもみんな理解してくれたんです。言葉は違っても思いは伝わるんだっていうことを改めて感じて、僕のやってきたことは間違ってなかったんだという実感がありました。やっぱり、どうしようもなく理不尽な思いをしながら、そこからはい上がってきた人の言葉って、説得力が違うと思うんです。だから、これからも理不尽な思いをしてくじけそうになっている人がいたら、僕は「甘えるんじゃない」って後ろからぶん殴って、ハッパをかけてやります(笑)。それがこの業界での、僕の役目の一つだと思うんですよ。

「演じるとは何か」の土台を作らないと声優として生き残ることはできない

30歳を過ぎた頃から、自分が何をやっても満足できなくなってしまったんです。思うようにしゃべれない、思うように演じられない、どう演じても何か違うような気がするという状態になってしまいました。僕にそういう気持ちがあるものだから、製作スタッフの方々も「草尾はどうしたんだろう」と感じるようになるし、実際に仕事もどんどん減っていきました。すべてのことが八方ふさがりで、どうしたらいいのかわからない状態がそれから10年くらい続きました。それが40歳くらいになって、「もうこれだけ悩んだんだから、いいか」みたいに振り切れたんです。そこからまたちょっと光が見えてきた感じですね。

そういう時代もあり、この業界に入った頃と今の自分を比べると、演技に対するスタンスや芝居に対する思いが、それこそ想像できないくらい変わってきました。だからこれからもどんどん変化していくとは思うんですが、今現在の僕が思っていることを言わせてもらいます。昔の僕ならこんな言い方はしなかったと思うんですが、今の状況を踏まえて、さらにこれから声優を目指す人たちのことも見据えて、誤解を恐れずあえて言います。

僕は、「声優」って役者じゃないと思うんです。アテレコは芝居じゃなくて、いい声で絵にぴったり合わせてしゃべる技術であって、それができる人間なら誰でも声優になれるんです。深夜アニメなどを観ていて、何でみんな同じような声で、同じような演技をするんだろうと思いませんか。でもそういうアニメを見て育ってきた世代の人たちは、アニメってそういうものだろうと思い込んでしまってるんです。実際、多くの養成所でそういう技術を教えていて、それができる人たちが新人声優としてどんどん世に出てきています。

だけど、それだけでは声優としての寿命が1年2年で終わってしまう。「演じるってなんだろう」「役を作るってどういうことだろう」という壁にぶち当たるんです。「演じるとは何か」「表現とは何か」という自分なりの土台をすでに作っている人が、いい声で絵に合わせてしゃべる技術を会得したら、そこから生まれてくるもの、印象に残るものが全然違うんです。多分、僕らが子供の頃に観ていて「漫画がしゃべってる!」と思わせられた、大人になっても忘れられないキャラクターを生み出せたのは、声をあてていた人たちがみんな「演じるとは何か」という土台をもっていたからだと思うんです。

だから声優を職業として続けていくなら「演じるとは何か」という命題は絶対に避けて通れないんです。その土台の上に声優としての技術が乗って、初めて本来の「声優」と呼ばれるものになると僕は思っていますし、そう教えられてもきました。今は、声優になりたい人はたくさんいます。たとえ技術しかなくて2年くらいしか使い物にならなくても、すぐ次の新人声優が出てくるので。自分で学んでいく、「演じるとは何か」という土台を試行錯誤しながら作っていく能力がなければ、生き残っていけないんです。

そういう意味では、今後はどんどん声優にとって厳しい時代になっていくでしょうね。僕も「演じるとは?」「表現とは?」ということを探求し続けていきたいんですが、その答えがいつわかるのかといったら、一生わからないんじゃないでしょうか。それでも追求し続けて、さらに声優としての技術も磨いて、僕が小さい頃に観ていたアニメの声優さんたちに一歩でも近づけるように、精進していきたいと思っています。

声優っていうのは基本的に裏方の仕事なので、皆さん表に出せない部分をたくさんもっていると思います。それぞれの歩いてきた道も十人十色なので、いろいろな考え方をする人がいらっしゃると思います。だから声優を志す皆さんには、たくさんの方の声優道に触れてほしいですね。そのなかで、僕のこの記事を読んで何か感じてくださる人がいたらうれしいです。

(2012年インタビュー)