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【声優道】緒方恵美さん「すべての仮面をいつでも外せるように」

『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』が3月9日から期間限定で無料公開中!
臨時休校などで自宅で過ごす学生の方々へ向けて3月9日~4月5日までの期間で随時配信予定となっている。

アニメや吹き替えといった枠にとどまらず、アーティスト活動やテレビ出演など活躍の場を広げ、今や人気の職業となっている「声優」。そんな声優文化・アニメ文化の礎を築き、次世代の声優たちを導いてきたレジェンド声優たちの貴重なアフレコ秘話、共演者とのエピソードなど、ここでしか聞けない貴重なお話が満載。

それぞれが“声優”という仕事を始めたキッカケとは……。

声優ファン・声優志望者だけでなく、社会に出る前の若者、また社会人として日々奮闘するすべての人へのメッセージとなるインタビューは必見です。

すべての仮面をいつでも外せるように

▼演技をすると褒められた小学生のころの原体験
▼両親の反対を押し切って進んだ演技の道での挫折
▼デビュー作でダメ出しされ低い声を出すためにジム通い
▼10年以上も同じ作品に関わっていられるうれしさ
▼全人格的に優れていないと声優になりにくくなった時代

【プロフィール】
緒方恵美(おがためぐみ)
6月6日生まれ。Breathe Arts所属。主な出演作は『幽☆遊☆白書』(蔵馬/南野秀一)、『新世紀エヴァンゲリオン』(碇シンジ)、『円盤皇女ワるきゅーレ』シリーズ(ワルキューレ)、『美少女戦士セーラームーン』シリーズ(天王はるか/セーラーウラヌス)、『Angel Beats!』(直井)、『めだかボックス』(球磨川禊)、『ダンガンロンパ』(苗木誠)ほか多数。歌手としても活躍中。

演技をすると褒められた
小学生のころの原体験

両親がクラシック音楽畑の人間だったので、家にはいつも音楽が流れていて、フルートやバイオリン、チェロといった楽器も十数種類ありました。私自身も3歳のときからピアノを始めたほか、バレエや日舞も習っていました。といっても、それほど女の子らしいということはなく、弟二人と体を動かして遊ぶほうが好きだった気がします。

ところがそんな元気な子だったので、あるとき遊んでいて手を骨折してしまったんです。骨がくっつきかけたころで再び同じ場所を折ってしまい、ついに入院することになりました。ベッドから動けないので、それまで興味がなかった本を読むようになったのですが、今度はたちまち活字オタクになってしまいました(笑)。小学校高学年の頃には週に10冊くらい読んでいたので、読書量はかなり多いほうだと思います。

小学6年のとき、学芸会で劇をすることになりました。登場人物のなかにかなりセリフ量の多い予言者のおばあさん役があったんです。おばあさん役なので誰もやりたがらなかったのですが、お互いに押しつけあっていても始まらない。それで「私がやります」と手を挙げたんです。でも、どうせやるならとそれまでの読書経験を生かして、セリフに抑揚をつけたりして、自分なりに工夫して演じました。そうしたら、劇が終わったあとに拍手をいただけたんです。そのころ私はクラスの女王様的女の子グループと折り合いが悪かったのですが、その子たちの母親が私のことを「お芝居がうまい」と褒めたことで、突然「友達になろうよ」と握手を求めてくれた。お芝居をしたらみんなが褒めてくれた、友達が増えた、「エヴァに乗ると褒めてくれた」みたいなもんです(笑)。振り返ると、そんな経験が私の演技の原点になっているのかもしれません。

でも、自分が演技の道に進むなんて思ってもいませんでしたね。中学ではハンドボールに夢中だったのですが、高校で部活を辞め、さて、なにをしようかと考えたときに、そういえばヱヴァに乗ったら(芝居をしたら)褒めてもらえたということを思い出し(笑)、ある芸能事務所の養成所に応募したところ合格。入って2カ月くらいで2時間ドラマなどの高校生役や、舞台のお仕事のお話をいただけるようになりました。ところが私の通っていた高校は、在学中の芸能活動が禁止だったんです。それで養成所を辞めざるを得なくなったのですが、人間って止められると逆に燃えるんですよね。だったら絶対にお芝居を続けてやると思って、本格的に役者という進路を考えるようになったんです。

両親の反対を押し切って進んだ
演技の道での挫折

私が役者になりたいと言ったところ、両親は大反対でした。父が芸能界周りの音楽仕事をしていたこともあり、この世界の難しさや厳しさを身をもって知っていたからでしょうね。それでも私が頑として譲らなかったら、妥協案として「大学に進学したら好きなことをしていい」と。とはいえ芝居以外のことはあまり考えてなかったので、今得意な教科で合格できる大学を探して受かったのですが、気づいたら校舎が静岡県の沼津だった(笑)。東京から距離があるので、並行して芸能活動をするにはとても厳しい環境です。それでも1年ほどは通いましたが、いよいよ我慢できなくなって勝手に退学届けを出して家に帰ってきちゃった。当然、父から勘当される勢いでものすごく怒られました(笑)。

そんな父ですが「そんなに芝居や歌がしたいなら、オペラをやれ」と、日本の二大オペラ財団といわれる藤原歌劇団の付属専門学校を紹介してくれました。私のやりたいのはオペラじゃないけど、とにかく入学願書を取り寄せてみたら、その年からミュージカル科が新設されると書いてあったんです。まだオペラよりミュージカルのほうがやりたいことに近いかなと思って、勝手にミュージカル科に応募して入学を決めてしまい、また怒られることになりました(笑)。

専門学校の卒業後は無事に劇団に所属してミュージカルをすることになったのですが、それまでもあまり調子のよくなかった腰を痛めてしまい、ついに踊るのはもう無理だという事態になってしまいました。それが24歳のときのことです。これからどうしようと途方に暮れていた私に、舞台でお世話になった関係者の方々に「きみは少年役で舞台に立ったときに、とても華があった。その年齢では宝塚は無理だけど、声優をしてみるのはどうか」と声をかけてくださいました。それで初めて、声優という仕事に興味をもったんです。

デビュー作でダメ出しされ
低い声を出すためにジム通い

まずはいちから勉強し直そうと青二塾に通い、卒業後は青二プロダクション所属となったわけですが、そこに「宝塚の男役のような華やかな声質で、男子高校生の演技ができるなら、男性でも女性でも構いません」というオーディションの話が来たんです。それで受けたのが『幽☆遊☆白書』の蔵馬役でした。私も事務所もどうせダメだろうと思っていたのですが受かってしまい、デビューという流れに。

私としては舞台をずっとやっていたし、少年役もお金をもらう仕事としてこなしてきたので、わりと簡単に考えていた部分があったんです。でも実際はとんでもなかったですね。まず、舞台やミュージカルと違って、台本をいただいてから本番までの時間が非常に短く、稽古がないのにも慣れませんでしたし、何より問題だったのは声質でした。
オーディションでは私自身の声を聞いて蔵馬役に選んでくださったという話だったのですが、やはり男性声優の中に混ざるとバランスが悪かったらしく。業界的にも第2次性徴期以降の少年の声を女性声優が演じるというケースはほぼなく、初の試みに近い部分があったので、声を聴いたときの違和感も大きかったと後で聞きました。音響監督さんから「もう少し何とかしてきてもらえる?」と言われたんですが、ムリに作ったような声を出すのもイヤで……それで、声帯の専門家をご紹介いただき、改めて詳しく調べてもらったんです。

人間の声って、高いほうは訓練すれば音域を広げられるんですけど、低い声は生まれもった声帯の長さで決まってしまうんです。でも私の声帯は日本人女性にしては長いので、〝体全体の楽器としての機能〟を高めて声帯のすべてを使えるようにすれば、男性並みの声が出せるかもしれないとのこと。それからはとにかく体を鍛えようと、週に5、6日はジムに通いました。そのうちにだんだん腰の据わった声が出るようになって、自然と声が低くなっていきました。

10年以上も同じ作品に
関わっていられるうれしさ

『新世紀エヴァンゲリオン』のオーディションの話が来たとき、最初は事務所のほうで断っていたようなんです。当時、私は週に9本のレギュラー作品と3本のラジオ番組を抱えていたので、スケジュール的に厳しかったのだと思います。ところが『美少女戦士セーラームーン』の打ち上げに参加していたら、そこに庵野秀明監督(※1)がわざわざやってきて「どうしてオーディションを受けてくれないんですか?」と声をかけてくださったんです。監督から「1次オーディションでは思うような人が見つからなかったので、よかったら受けてもらえませんか」と直接……。こんな光栄な話はありません。そんなきっかけで主人公の碇シンジを演じることになったのですが、いただいた作品資料からして、すでに他作品とは一線を画すほど細かく描き込まれていて、スタッフさんのすさまじい気合いを感じました。さらに第1話の収録で映像を見て、こんなすごいアニメは今まで観たことがないと、キャスト同士で語り合ったのを覚えています。

ただ正直なところ、ラストに近づくに連れてあまりに解釈が難しく、演じていてもよくわからない部分も正直ありました。もちろん主人公役ということもあって、一生懸命やらせてはいただいたのですが……。TVシリーズ終了後も、年に1、2本はゲームなどのエヴァ関連のお仕事があったのですが、その内容があまりに2次創作的な物が多く、一生懸命やればやるほどつらい気持ちになり、疲弊していっていました。だから『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を作るという話を聞いたときも、情報だけの段階では、正直「またか……」と思っていました。

ところが、改めてオファーをいただいて1作目の台本を読んだとき、「これが庵野監督のエヴァだ」と思ったのと同時に、「エンターテイメント作品を創る」とおっしゃった庵野さんの真意はこれなのか!と、グッときました。物語としては総集編に近いんだけど、それだけではない。これはリメイクではなく新作なんだと感じられたんです。最初に演じてから10年以上たって、また同じ作品の同じ役を演じさせていただく機会なんてそうあるものじゃない。そんな作品に自分が関わらせていただけること自体がまれだと思うし、しかもリメイクではなく、新しい作品としてすごいものを作ろうとしている現場に、座長として参加させていただける。本当にすごいことなんだと感じました。

私はあまり器用ではないので、自分が「声優として大切だ」と思う「あること」を守り続けているしかなかったのですが、それでいろいろと苦しむことや悩むこともありました。ところが『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の収録が終わったとき、庵野監督が私の手を取って「13年間変わらず少年の気持ちをもち続けてくれ、それに13年分の君の経験値を足してくれて、ありがとう」と言ってくださったんです。自分が間違ってなかったこと、それを認めてもらえたことがすごくうれしくて、思わず泣いてしまいました。スタジオの床で手を握りあいながら泣いていたので、端から見たらさぞや変な光景だったと思います(笑)。

※1:アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』や実写映画『シン・ゴジラ』で知られるアニメーター、監督

全人格的に優れていないと
声優になりにくくなった時代

声優として生き残っていくためには、さまざまな方法があると思います。私はあまり器用ではないので、変わらずにいること、そこに経験値を積み重ねていくことしかできませんでしたが、それが評価されたからこそまだ声優でいられるのかなあと。『新世紀エヴァンゲリオン』が放映されたのはすでに17年も前の話ですが、現在でも新作として動き続けている作品であり、その中に指針を見いださせていただけたのは希有で、ありがたいことでした。

言葉ではなかなかうまく表現できないのですが、私が思う「声優にとって大切なもの」とは「すべての仮面をいつでも外せること」。私もOVA『ガラスの仮面』で北島マヤを演じさせていただきましたが、マヤは天才的な演技の才能をもっていて〝1000の仮面をもつ少女〟と言われているんです。でも私は、演技とは仮面をかぶるのではなくて、外す作業のような気がするんです。誰でも社会生活を営むなかで、少なからず演技をしながら生きています。人とうまく付き合うために、仕事をうまく進めるために、本音ではないところで演技をしているし、いち大人としては仮面を外しにくくなり、合わせてかなり柔軟なセンスをもち続けていないと、演者としても型にはまりやすくなりがち。特に素をさらさなければならない若い役は、年々難しくなってゆきます。顔出しの役者だったら自分自身とそれほどかけ離れた役はできませんが、声優は演じる年齢や性別に、なるべく限界を作りたくないもの。だからこそ、求められればいつでも全部の仮面を外せるようでいたい。

私は、この歳でありがたいことに、いまだに新作アニメで少年を演じさせていただく機会も多いのですが、少年役はほかの役に比べ、何のてらいもなく「素」でいなければできないことが多い。もし私がすべての仮面を外すことができなくなったら、それは役者という仕事を辞めるときだと思っています。

ただ、最近は声優に求められるものが変化してきているなとも感じています。今後、声優になりたいと思っている人には、演技力はもちろん必要なんですが、ある程度の容姿も求められるだろうし、社会人としてのコミュニケーション能力も高くなければいけない。芸能界と同じく、全人格的に評価されるようになってきてしまいました。そういう人間的な資質や魅力を養うには、家庭環境に恵まれているか、あるいは血のにじむような努力をして周囲の環境を変えていくしかありません。そう考えると、声優になるのはかなり厳しい道のりだと思います。

だからこそ、これから声優を目指す人は、自己流のトレーニングなどで変な癖をつけるより、まずは今しかできないことを一生懸命やること。勉強にしろクラブ活動にしろ家族との生活にしろ、目の前にある、人としてやるべきことを。それだけが自分だけの引き出しになってくれる。そのなかで、人とのコミュニケーション能力を磨いていく。プラス笑顔だったり容姿だったり、センスだったり……そんな周囲の人を惹きつける、仲良くなりたいと思われるような人間的魅力をもつこと、人としての経験値を積むこと。それがいちばん大事。演技の勉強は、その先にあるものだと思います。

(2012年インタビュー)