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【声優道】キートン山田さん「「ナレーション」という名前の役を演じる」

『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』が3月9日から期間限定で無料公開中!
臨時休校などで自宅で過ごす学生の方々へ向けて3月9日~4月5日までの期間で随時配信します。

アニメや吹き替えといった枠にとどまらず、アーティスト活動やテレビ出演など活躍の場を広げ、今や人気の職業となっている「声優」。そんな声優文化・アニメ文化の礎を築き、次世代の声優たちを導いてきたレジェンド声優たちの貴重なアフレコ秘話、共演者とのエピソードなど、ここでしか聞けない貴重なお話が満載。

それぞれが“声優”という仕事を始めたキッカケとは……。

声優ファン・声優志望者だけでなく、社会に出る前の若者、また社会人として日々奮闘するすべての人へのメッセージとなるインタビューは必見です。

「ナレーション」という名前の役を演じる

▼昼は会社員、夜は劇団という生活
▼初レギュラーの『一休さん』で少しだけアニメの仕事に自信がもてた
▼日々の生活に困り 役者を辞めることを考えた
▼新たに生まれ変わったつもりでキートン山田に改名
▼転機となった『ちびまる子ちゃん』との出合い
▼ナレーションの極意とは自分の感覚で語ること
▼伝えたいと思う気持ちがあれば、生き残っていける
▼自分で自分を育てていくということ

【プロフィール】
キートン山田(きーとんやまだ)
10月25日生まれ。リマックス所属。主な出演作は、アニメ『ちびまる子ちゃん』『MASTERキートン』(ナレーション)、『銀河英雄伝説』(アレックス・キャゼルヌ)、『一休さん』(足利義満)、『サイボーグ009』(004)、『ゲッターロボ』(神隼人)ほか、『大!天才てれびくん』『みんなの疑問ニュースなぜ太郎』『理科3年 ふしぎだいすき』『○ごとワイド~キートンの名店』『土曜スペシャル』など数多くの番組でナレーションを務める。

昼は会社員、夜は劇団という生活

僕が役者という仕事に興味をもったのは、19歳のときです。高校卒業後に北海道から上京して、会社勤めをしていましたが、「一生この会社にいるのかな?」とふと思ってしまったんです。ほかに何か自分に向いている道があるのではと、半年くらい考えていました。そんなときに「劇団員募集」という広告を見つけて、劇団に入ったんです。子供の頃に映画を観て「面白いな」と思ったことはありましたが、「役者になるんだ」という強い意志はもっていなかったし、もしそこで入団オーディションに落ちていたら、すぐに諦めてしまったんでしょうね。

劇団に入ったもののまったく先が見えないし、そのまま昼はサラリーマン、夜は劇団に通うという生活を続けていました。東京出身の人や、地方出身でも僕より早く演劇を始めた人は、きれいな標準語をしゃべるし、人前に出ても堂々としているんです。でも僕は不器用で、子供の頃からほとんどしゃべらないくらい無口なタイプだったから、何一つうまくできなくてね。そう考えると、自分でも何で劇団に入ろうと思ったのかわからない(笑)。でも2、3年続けているうちに、人前に立つ恥ずかしさもなくなり、演技をすることが次第に楽しくなってきたんです。

会社は、約4年間勤めて辞めました。22歳くらいのときです。それまで昼間は会社、夜は劇団という生活を続けてきましたが、劇団の公演があると夜だけの活動というわけにはいかないんです。そういうときは会社を休んだり、誰かに仕事を代わってもらったりしていたんですが、そういうことも次第にしづらくなっていたので、思い切って退職しました。そしてアルバイトをしながら役者の勉強を続けることにしましたが、今考えるとかなり無謀ですね(笑)。役者としての仕事があるわけでもないし、先の見通しもつかない。でも役者の勉強がとにかく楽しくて、お金がない苦労なんか感じませんでした。ただ、親にはものすごく反対されましたね。僕の親の世代から見たら、劇団に入ったなんて、サーカス団に売り飛ばされたくらいの衝撃なわけですよ(笑)。しかも黙って会社を辞めてしまっていたので、僕を連れ戻すために伯父が上京してきたくらいです。でも僕は辞める気はなかった。逆に、夢に破れて地元に帰って「ほら見たことか」と言われるのが悔しくて、とにかく一人前の役者になろうと余計にのめり込みました。

初レギュラーの『一休さん』で少しだけアニメの仕事に自信がもてた

僕が24歳のとき、日本初の声優専門プロダクションである青二プロダクションが設立されました。その創立メンバーだった柴田秀勝さんが、僕のアルバイト先に客として来ていて。その縁で、青二プロダクションに預かり所属ということになりました。でも、預かってもらっただけで、何か教えてもらえるわけじゃないんです。僕もテレビで洋画の吹き替えやアニメを観て、声優という仕事があることは知っていましたが、自分の仕事ではないと思っていましたから、何をどうしたらいいのか、まったくわかりませんでした。ところが、それから半年くらいたって、いきなりアニメの仕事をいただいてしまったんです。もちろんできないなんて言えませんから、見よう見まねで演技をしました。プロの現場では、失敗したときは注意されますけど、ほかは何も言ってもらえないんです。スタジオには、僕がテレビで名前をよく見ていたようなベテランの役者さんがそろっていて、ものすごいプレッシャーでした。自分のセリフのときにマイクに入れない、セリフをしゃべってるうちに次の絵になっちゃうといったこともしょっちゅうで、スタジオに行くのが怖くなった時期もありました。そんななかで、どういうふうにしたらうまく演技できるんだろう、ほかの役者さんはどうしているんだろうと、少しずつ技術を盗んで勉強していったんです。

そうして3年くらい頑張った頃でしょうか。初めてアニメでレギュラーがいただけたんです。それが『一休さん』の将軍様でした。あの作品は7年くらい続いたでしょうか。かなり自由奔放に演じさせてもらえた現場で、さまざまなアドリブにも挑戦できました。『一休さん』のおかげで、少しだけアニメの仕事に自信をもつことができるようになったんです。当時はアニメではなく「テレビまんが」と呼ばれていたし、まだ声優という言葉もなく、「声の人」「声色の人」といった感じで、世間からは一人前の役者ではないと馬鹿にされていました。もちろん声優養成所もありませんでしたが、そんな時代に先輩の役者さんから現場で学べたことは、僕にとっての宝だと思います。

僕自身は「声の仕事一本でやっていこう」と決意していたわけではありませんが、その頃から仕事が増えて、気が付いたらどっぷりと声優の世界にはまっていました。声の仕事も、やり始めると奥が深いんです。何しろ、決められた尺の中にセリフを入れなければならないし、洋画に至ってはすでに画面の中で俳優さんが演技をしてしまっているわけですから、その演技にも合わせなきゃいけない。名人は画面の演技の上に、さらに自分の個性を乗せるということもできますが、僕は不器用で下手くそなんで、とてもできないんです。舞台演技と声の演技と、どちらが好きかと聞かれたら、間違いなく舞台です。舞台演技のほうが圧倒的に制約が少ないですから。そんなわけで洋画の吹き替えは、今でも苦手です(笑)。ただ、どんな演技であっても、自分らしく演じることが大切だと思います。器用な人は役柄に合わせて演技スタイルや声を変えていけるかもしれませんし、そういうやり方もあると思います。でも、自分らしさ、自分のまま、「我がまま」を貫き通さないと、印象には残らないんじゃないかな。

僕はずっと個性がないと言われ続けてきたし、自分の中にある芯がブレたこともありましたが、自分がどう演じるべきなのかを見つけられたからこそ、今の僕があるのだと思っています。

日々の生活に困り
役者を辞めることを考えた

実は、声優どころか役者という仕事を本気で辞めようと思ったこともありました。30代半ばの頃、仕事がなくなったときです。

それまでは約10年間、青二プロダクションに所属していて、すごく恵まれていました。レギュラーもたくさんもらって、収入もわりと安定していたんです。結婚して家を買って、車を買って、子供もいて、それでも生活が成り立っていました。ところが青二を辞めてから仕事が減って、レギュラーが1本もなくなってしまったんです。たまに仕事が来ることもありましたが、収入は主にアルバイトに頼っていて、子供の給食費にも困るようになってしまいました。役者になるときにあれだけ反対された親からも借金をしました。妻からは「たとえ少なくてもいいから、毎月決まった収入がある仕事に就いてほしい」とも言われました。それで、役者を辞めることを考えたんです。

かといって僕に何ができるかと考えたとき、何も思いつかなかったんです。もしかしたらどこかの会社に勤めることもできたかもしれませんが、年齢的にも中途半端だし、これといった経験もない。悩みに悩んで、何を食べても味がわからないまでになって、ものすごく痩せました。

そうしてると、だんだんおかしくなってくるんですね。景色や色も見えなくなってくる。目には入っているけど、感じてないんです。後から考えたら、音も聴こえていませんでした。誰かから声をかけられても、まったく届かないんです。景色はすべてグレーに染まっていて、頭の中で常に何かがガンガン鳴っているような状態でした。とにかく楽になりたくて、いちばん楽な方法として、死ぬことも考えました。

ある日、一人で部屋にこもっていたときに、ふと子供たちの笑い声が聞こえてきたんです。なぜか頭の中が熱くなるような感じがして、「このままじゃダメだ」と思いました。それで外に出てみたら、空がすごく青くて、白い雲が浮かんでいて、子供の頃に北海道で見た景色を思い出したんです。東京に出てきてこんなふうに景色を見たことがあっただろうかと思い、その風景の美しさに自然と涙が出ました。それで「もう一回、真剣に役者をやってみよう。それでダメならすっぱりと辞めよう」と思ったんです。

新たに生まれ変わったつもりでキートン山田に改名

改めて役者として踏み出すに当たって、生半可な気持ちでは再起できないと思いました。そこで考えたのが、改名です。
僕はそれまで本名の山田俊司でやっていましたが、結果的に仕事がなくなってアルバイトや借金で食いつなぐ生活になっていました。近所の人たちもそういう状態は知っていたわけで、気持ちだけでなく表向きも一新しないと、今までの自分を捨てて新たに踏み出すということをわかってもらえないかと思ったんです。

そして38歳のとき、キートン山田として生まれ変わりました。

ただ、仕事がなくなってつらい状態にあったことは、僕にとっての宝とも言うべき貴重な経験になったと思っています。あの経験がなかったら、そこそこの仕事を続けて何となく歳をとっていっただけで、今頃は消えていたんじゃないかな。あまりに強烈な経験なんで、もしかしたら聞いた人が引いてしまうかもしれないけれど、あの時期に経験したことはすべて勉強になりました。何一つ無駄になっていません。

改名してからは、演技スタイルも変わりました。周囲から何かを言われて演技を変えるのではなく、自分らしさを貫こう、キートン山田としての芸風を押し通そうと思ったんです。「キートン山田」という名前からは、まず誰も二枚目風の演技を想像しないと思いますが、そこも狙いでした。もともと、主役によく見られる二枚目ではなく、主人公を周囲で支える脇役の演技に引かれていたんです。もちろん二枚目の役が来たら引き受けましたが、やっていても「性に合わないな」と思っていました。

こう言うと、自分に近い役のほうが演じやすいのかと思われるかもしれませんが、そうではないんです。クールな悪役とか、アウトローの役とか、自分にないものをもっている役のほうが、演じていて面白いんですね。自分にはもっていないものを想像して、その役ならではの魅力を自分らしく表現するというところに惹かれるんです。主人公よりも脇役のほうが、そういった自分が表現したいものを出せる余地が多いので、演じていて楽しいと感じることが多いんでしょうね。

転機となった『ちびまる子ちゃん』との出合い

僕にとっての転機となったのは、『ちびまる子ちゃん』のナレーションです。

キートン山田に改名してからは、自分らしい表現というものを試行錯誤していましたが、その一つにナレーションがありました。できるだけ作らず、自分らしくナレーションをしたらどうなるんだろうと、ずっと考えていたんです。やはりどこかに無理をかけて作ったものは、長くは続けられませんからね。また、それまでにいろいろな仕事を受けてきましたが、キートン山田としてぴったりの仕事、代表作になるような仕事があるはずだとも思っていました。

『ちびまる子ちゃん』の仕事が来たとき、すぐに「これだ」と感じたんです。決して無理せず、しかし思いを込めてナレーションをするという、望んでいた形の仕事ができたと思ったんです。

役者の世界では、どれだけ努力をしても報われないこともあります。実力があっても、自分にぴったりと合うような仕事に巡り合うための運がなかったために、辞めていく人も大勢います。僕もそういう人たちを数多く見てきました。そんな世界で、決して演技がうまいわけでもない僕が生き残っているということが、若い人たちにとっての励みになったらいいですね。

人は一人ひとり顔も違いますし、声も違います。それが個性なんです。他人のまねをしても身に付かないし、小手先のテクニックではどうにもならないんです。全部個性と捉えて、それを人前で恥ずかしがらずに全部さらけ出すようにすれば、その個性を認めてくれる人に巡り会えるのではないでしょうか。僕も44歳で『ちびまる子ちゃん』と巡り合い、本当の意味で生まれ変われたと思っています。

ナレーションの極意とは自分の感覚で語ること

今ではさまざまな番組のナレーションをさせていただくようになりました。お陰でときどき「ナレーションの極意とは?」みたいなことも聞かれますが、僕もはっきりとした信念や理論の裏打ちがあるわけではないんです。ただ、『ちびまる子ちゃん』などがわかりやすいかとは思いますが、僕はナレーションを「ナレーションという名前の役」だと思って演じているんです。

キートン山田になって初めてのナレーションの仕事は、あるバラエティ番組でした。それはかなり早口でしゃべり倒すようなナレーションだったので、とにかく感じたままやりたいようにやろうと思ったんです。それでダメ出しされたら、そこから考えようと思っていましたが、最初のプランでOKが出てしまいました。その番組のナレーションは7年くらい続きましたね。

その番組をやっている最中に、『ちびまる子ちゃん』のナレーションの仕事が入ったんです。僕としては、どちらも自分が感じたままに、自分らしくしゃべっているつもりなのですが、テンポや口調が両極端に違うので、最初は同一人物がしゃべっているとは思われなかったくらい。誰かとの会話で物語が進んでいく演技と違って、ナレーションは自分一人でする仕事です。だから大事なのはやっぱり、自分ならではの感性だと思うんですよ。バラエティ番組であっても、旅番組であっても、グルメ番組であっても、自分の感覚にもとづいてしゃべらないと、ただ文章を読まされているだけになっちゃう。ですから僕は、ナレーション原稿は叩き台だと思っています。よく、原稿に書かれていないことをしゃべっちゃったりするんだけど、それは僕自身の思いだから止められないし、結果として番組が成立すればそれでいいと思っています。もし極意があるとしたら、こういうことかな。

もう一つ、ナレーションは最後に入れるものだから、決して映像を邪魔しないようにとは思っています。いわば、しゃべるBGMみたいな感じでしょうか。特に旅番組などでは、映像があって、出演者がしゃべっていて、テロップが出てと、ナレーションがなくても大体のことは伝わるじゃないですか。ですからナレーションなんて、必要最低限でいいんです。決してうるさくなく、耳ざわりにならないように、なおかつそこに自分の感覚を乗せてしゃべれるようになるといいですね。
どんな役者でも、事前に準備をすればするほど、稽古してきたものを全部出したくなっちゃうんです。でもそれをやると、非常にうるさい(笑)。時間をかけて十分に準備して、そこから何をどう引き算するといちばん効果的なのか考えるのも役者の仕事です。だからよく現場でも、用意された原稿を見て「この部分はいらないんじゃないの?」といったように、スタッフの方と相談しています。

伝えたいと思う気持ちがあれば、生き残っていける

テレビの前で僕らの演技を見ている人の中には、さまざまな年齢の人がいます。見ている状況や理由もさまざまです。なんとなくテレビをつけているだけの人もいれば、真剣に見ている人もいる。その人たちが歩んできた道もさまざまで、誰一人としてまったく同じ経験をしてきた人などいません。

でも僕らは、そのさまざまな人たち全員をうなずかせるような演技をしなくちゃいけないんです。僕もできているとは思っていませんが、できるだけ多くの人に共感してもらえるような語りがしたいと思っています。そのためには、常にテレビの前の人たちのことを考えるようにしています。

たとえば僕と同年代の人に向けては、「あの時代はこうだったよな」という想いを強く表現すれば、より色濃く伝わるものがあるんじゃないでしょうか。そういう思いを込めた語りをすることで、「あの時代はそうだったのか」と納得してもらえることもあると思うんです。そういう意味では、日常のすべて、人生そのものが勉強だと思っています。逆に言うと、そういう自分の経験の中から出てくる思いを込めた語り口というのは、学校で教えてもらえるものでもないし、何かの本に書いてあるわけでもないんです。自分らしく語る、血の通った語りをするというのは、そういうことじゃないでしょうか。誰かに何かを伝えたいという気持ちをもって、常にそれを心掛けた演技をしていれば、時代が変わっても生き残っていけるのではと思っています。

自分で自分を育てていくということ

今は声優養成所もたくさんあって、学ぼうと思えばいくらでも学べる環境があります。僕は現場で盗み見て覚えていったので、羨ましいなと感じることもありますね。でも、学校だけでは学べないことも多いし、あまり教わりすぎるとテクニックばかりに走って、その人らしさがなくなってしまう気がするんです。基礎を固めるには、学校や養成所で教わるのが早道だと思います。しかし、ある程度の土台をしっかり作ったら、そこから先は自分で学んで自分を育てていってほしい。表現は自由なものだから、誰かから教わってできるものではないんです。

僕はナレーションを正式に学んだことがありません。だからこそできる表現もあると思うんです。いろいろなことを経験して、それを演技に生かしてこそ、自分の個性というものが出てくるのではないでしょうか。

ただ、そうやって頑張っても、報われるとは限らないのが声優です。僕自身、今まで長いこと声優をしてきましたが、「自分にぴったりと合っている」と心から思える仕事は数えるほどしかありません。もちろん、それ以外の仕事でも誠心誠意全力でやっていますが、後から考えると「ちょっと違うな」と思うことも(笑)。そういう自分にあった役に巡り会える運があれば、きっと声優として長生きできることでしょう。

今は声優さんの数も多いし、いわゆる「売れる演技」を求められてしまうことも多いと思います。それが自分に合っていないと、やがて忘れられて消えてしまう。声優さんの仕事の種類も増えて、演技だけではなく歌も歌えなくちゃいけない、ダンスもできなくちゃいけないと、さまざまな力を求められます。大変な時代だと思いますよ。そういう環境のなかで今、売れている人気声優さんたちは、きっと何かをもっている人なのでしょうね。僕にはとてもできないし、心から尊敬します。

ただ、そういう時代だからこそ、さまざまなことに挑戦できるというメリットもあると思うんです。ですから、歌でもテレビドラマでもどんどん挑戦してほしい。僕らの時代は声優なんて半人前の仕事だとバカにされていましたが、そうではないんだということを世間に見せつけてほしい。都合よく使われるだけではなく、自分なりの表現をどんどん実現していってほしい。

そんな夢を、これからの若い人たちに託したいと思います。

(2016年インタビュー)