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【声優道】置鮎龍太郎さん「コミュニケーション能力を磨く大切さ」

『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』が3月9日から期間限定で無料公開中!
臨時休校などで自宅で過ごす学生の方々へ向けて3月9日~4月5日までの期間で随時配信します。

アニメや吹き替えといった枠にとどまらず、アーティスト活動やテレビ出演など活躍の場を広げ、今や人気の職業となっている「声優」。そんな声優文化・アニメ文化の礎を築き、次世代の声優たちを導いてきたレジェンド声優たちの貴重なアフレコ秘話、共演者とのエピソードなど、ここでしか聞けない貴重なお話が満載。

それぞれが“声優”という仕事を始めたキッカケとは……。

声優ファン・声優志望者だけでなく、社会に出る前の若者、また社会人として日々奮闘するすべての人へのメッセージとなるインタビューは必見です。

コミュニケーション能力を磨く大切さ

▼アニメ好きが高じて声優を目指し、青二塾の門を叩く
▼基礎的な演技に関してはもちろん 精神的な部分を教えてもらった青二塾
▼上京してプロになったものの 仕事がなかった苦悩の日々
▼やはり何年たっても、努力や試行錯誤というものは必要
▼声優を続ける条件はメンタルが強く精神的に折れないこと

【プロフィール】
置鮎龍太郎(おきあゆりょうたろう)
11月17日生まれ、青二プロダクション所属。主な出演作は、アニメ『トリコ』(トリコ)、『地獄先生ぬ~べ~』(鵺野鳴介)、『SLAM DUNK』(三井寿)、『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』(フランツ・ハイネル)、『ONE PIECE』(カク)、『勝負師伝説 哲也』(阿佐田哲也)、『ママレード・ボーイ』(松浦遊)、『フルーツバスケット』(草摩紫呉)ほか多数。

アニメ好きが高じて声優を目指し、青二塾の門を叩く

もともとアニメーションが好きで、小さい頃からよく観ていました。父親が若い頃、某映画会社に籍を置いていた時期があって、そのご縁でよくアニメのポスターやセル画をもらってきていたんです。子供に勉強を押し付けるタイプでもなく、テレビを観ることにも寛容でした。それで自然にアニメに目が向くようになったのだと思います。

姉もアニメ好きでしたけど、絵を描くほうが好きで、高校卒業後に少しだけアニメ関連の仕事をやっていました。対して僕は、描くほうじゃなくて、声優に興味をもち始めていました。姉が持っていたアニメのドラマ篇アルバム(レコード)を部屋で聴いたり、ちゃんとできていたわけじゃないけど、声優のまねごとをしてセリフを言ったり……。TVアニメでは、『機動戦士ガンダム』の富野(由悠季)監督の次作、『伝説巨神イデオン』が好きでよく観ていましたね。その頃から、演者も気になっていて。

高校生のとき、進路を決める時期に声優養成所の資料を取り寄せたんです。当時、大阪に住んでいたのですが、関西には声優になるための門戸があまりありませんでした。養成所といえば、青二塾ともう一つぐらいで、ほかには東京に出てくるしか道がなかった。そんなときアニメ雑誌に載っていた青二塾の広告を見て「有名な声優さんばかりだし、ここなら道があるのかな?」と思ったんです。母は、僕が声優養成所に入ることに反対していましたが、父が「やりたいのなら、やってみればいい」と言ってくれたんです。

青二塾の大阪校を受けたのですが、応募者数は今みたいに多くはなかったですね。競争率2倍もないくらいで。男性は特に少なかった。試験の内容はあまり覚えていませんが、実技は原稿読みと質疑応答だったかな? 審査員として青二プロダクションのスタッフと所属の役者さん……塩沢兼人(※1)さんと柴田秀勝さんがいらした気がします。

僕らの時代は塾生が50名くらいで、学生メインクラスと社会人メインクラスの二つに分けられました。僕は前者で、いちばん年上の人が20歳くらい。社会人クラスは20代後半か30歳手前の人がいちばん上でしたね。

※1:塩沢兼人(1954-2000年)・・・「クレヨンしんちゃん」ぶりぶりざえもん役、「北斗の拳」レイ役などで知られる声優

基礎的な演技に関してはもちろん
精神的な部分を教えてもらった青二塾

青二塾はよく「授業が厳しい」と言われています。僕らの頃もたしかにそういう印象はありましたが、演技よりも精神的なことをよく言われました。多分、僕らが学生気分でいたからだと思いますが、「それでは社会人としては通用しない。人としてちゃんとしなさい」ということをずっと言われていた気がします。演技に関しては、基礎的なことをしっかりやっていた印象ですね。最近ではアクセントや、無声音、鼻濁音(※2)をまったく教えない専門学校もあるらしく、仕事場でビックリすることが多いので、養成所でそのことをしっかり教えていただいて本当に良かったと思います。

もともと自分は〝芸事を習う〟ということをまったくしてこなかった人間なので、実際に人前で原稿を読んだり台本を演じたりすることが新鮮で楽しくもあり、難しくもありました。当時は男性が少なくて、クラスに3人くらい。20人以上は女性です。卒業時はクラスで僕一人だけでした。クラス単位で何か出しものをやるときも、女の子が男性役をやったりしていましたし、声優を目指す男性は、当時それほど少なかったんです。

青二塾を卒業すると、青二プロに所属するためのオーディションがあり、そこで合格してすぐ上京したのが4人。学業などの都合であとから上京してきた人も合わせると6人。同じ年に東京の青二塾から青二プロに入った人はけっこう多くて、大阪校の倍くらいはいたかな? 人数の多い年で、同期は、國府田マリ子、太田真一郎、田中一成、ほかにもかなり残ってる世代かもしれません。とはいえ、3分の1くらいにはなっていますが。

※2:無声音、鼻濁音・・・無声音は、声帯の震えを伴わずに発せられる音で、鼻濁音は、呼気を鼻に抜いて発音するガ行音を指す

上京してプロになったものの 仕事がなかった苦悩の日々

上京していちばん大変だったのは、金銭面でした。食べていくのは本当に大変です。上京してきた頃、青山の「ルノアール」でバイトをしつつ、年上の従兄弟がいた設計関係の会社で雑用のバイトを並行してやってました。

これは地方に住んでいる皆さんに言っておきたいのですが……本当は、上京する前にバイトをしてお金を貯めておくのがいいと思いますよ。通っていた養成所は土日のみのレッスンだったので、平日にしっかりバイトをすれば十分貯金することができるんですね。でも僕はちゃんと貯められなくて(笑)、上京の際には多少親から援助してもらいました。援助してもらった分は……後で返したと思います、多分(笑)。

上京前は「上京さえしてしまえば、あとは何とかなる」と思っていたんです。でも、それはまったく甘い考えでした。上京してしばらくすると「もう辞めなきゃいけないのかな?」「自分は向いてないのかな?」って思ってしまうくらい仕事がなくて……。同期が多かったので、仕事をしている人もいれば、してない人も。仕事がなくて事務所にも顔を出さなくなって、だんだんフェードアウトしていく人もいましたね。もっとも本人と事務所との相性もありますから、別の事務所に移って芽が出る人もいますよ。僕はたまたま青二プロとご縁があったというだけですね。

アニメで最初にいただいた仕事は、古谷徹さん主演の『ドラゴンクエスト』です。これに一度だけ出演させてもらいました。それから『まじかる☆タルるートくん』、『ゲッターロボ號』など、青二プロがキャスティング協力を行っていた東映動画(※3)さんの作品にたくさん出演しました。それと並行する時期にいくつかのオーディションを受けては落ち、受けては落ちを繰り返してました。

そして、同時にいくつもの作品の音響製作をしていた、とある会社のオーディション。その一つに引っかかったのが『新世紀サイバーフォーミュラ』という作品でした。ここで初めて〝フランツ・ハイネル〟という名前のある役をいただいて、1年間出演しました。僕にとっては最初のレギュラー作品。出番こそ多くはありませんでしたが、TVシリーズ後も何年にもわたり続く長期作品に。この作品と出合ってなかったら、今の私はいなかったであろう、大切な作品です。

ところが、その『サイバーF』が終わって1年くらい、なかなかチャンスに恵まれなくて。まだ『サイバーF』のいろいろなシリーズが決まる前だったんですね。「どうしよう、どうしよう?」と焦りながら過ごしていました。

そんな頃に、サンライズさんの『勇者特急マイトガイン』、『疾風!アイアンリーガー』、『新機動戦記ガンダムW』といった作品に続けて出演できる機会が得られました。東映アニメの『SLAM DUNK』、『ママレード・ボーイ』、『地獄先生ぬ~べ~』なども同時期ですかね。その頃になってやっと、「声優としてやっていけるかな」という気持ちになりました。もちろん上京してすぐ「やっていかなきゃ」という気持ちでやってはいましたが、ずっと「やれるかな?」という不安な気持ちもありました。今でもそういう気持ちは残っていますけど、でも自分はこれ(声優)しか食べていく術がないですからね。

プライベートでいろいろありまして、並々ならぬ覚悟をもっていましたし、「もう退かない! この仕事(声優)で食べていくんだ」と腹を決めてやっていました。そういう覚悟があったから心が折れなかったし、クサらなかった。ダメ出しされても真摯に受け止め、前向きにいろんなことを考えられたのだと思います。

※3:東映動画・・・1948年に日本動画株式会社として設立された日本のアニメ制作会社。現・東映アニメーション

やはり何年たっても、努力や試行錯誤というものは必要

これまでたくさんの作品に出させていただきました。

僕がとくに印象に残っているのは、やっぱり初レギュラー作品の『サイバーF』。先輩の島田敏さんとコンビの役をやらせていただきましたが、このとき敏さんに、役のうえですごく引っ張ってもらった覚えがあります。そういうときの先輩の力ってすごいですよね。僕らは先輩方に恵まれ、先輩方から影響を受けて育ってきたのだと思います。

『SLAM DUNK』は作品自体の認知度がとても高く、しかも三井寿というわかりやすいキャラクターをやらせていただいたおかげで、若手同業者の方から「観てました」と言われることも多いです。ちょっと前に『SLAM DUNK』のブルーレイ発売記念イベントに出させてもらって、大きなスクリーンでお客さんと一緒に作品を観る機会がありました。そして先輩の草尾毅さん、西村知道さんたちと一緒に登壇し、安西先生と20年の時を経て、作品について話したりしました。20年後にそんなことができるとは思ってもいなかったので、ありがたいことです。

『地獄先生ぬ~べ~』は初主演で、鵺野鳴介役をやらせていただきました。アニメ放送から20年近くもたって、まさかの実写ドラマ化もされましたが、僕も一度だけドラマのナレーションに参加させてもらいました。続編の漫画連載も始まり、個人的にも応援しています。

ここ数年は、〝ごつい系〟の役を振られることが多いんですよ。アニメ『戦国BASARA弐』の豊臣秀吉役とか、『トリコ』のトリコ役とか。そういうムキムキマッチョの役を初めて任されたときは、「どうしてこの役を自分に?」と謎でした(笑)。そういう役に定評があるわけでもないのになぜだろ?と。

『BASARA』のゲーム収録の最初の頃はものすごく違和感があって「できてるのかなぁ?」と不安で……。でも「一生懸命やるしかない」と無理してやっていくんですね(笑)。最初の頃は意識しすぎていたんですよ。単なる思い込みで「大柄のムキムキの役だから、低音を出さなきゃいけない」と一生懸命やっていたんだけど、自分で聴いてみて「自然に聴こえないな」と。僕自身、年齢とともに低音に余裕が出るようになってきているから、もっと自然にやったほうがいいんじゃないかと。その後は、うまくコツをつかんで自然にマッチョ感を出せるようになりましたし、体に負担なく演じられるようにもなりました。

声優の仕事って、いつも自分が演じたい役を演じられるわけじゃないので、『BASARA』はよい機会だったと思います。絶対に自分から「やりたい」と言うような役じゃないですし(笑)、これはスタッフさんに、自分の新しい扉を発見していただいたのかなと思っています。

何年たっても努力や試行錯誤というものは必要ですよね。声優になって26年になりますが、いつも新鮮な気持ちで演じられるようにと心掛けています。あまり頭を固くせず、柔軟にしていることが大事なのかな。

これからやってみたい役はいっぱいありますよ。普段は絶対振られないおじいちゃん役なんかも、いつかぜひやってみたいですね。ごついおじいちゃんじゃなくて、かわいいおじいちゃん役を。まぁ、ごつくてもいいんですけど(笑)。今から10年、20年は実年齢を追い越して、老けた役もできたら面白いだろうなと思います。幅も広がりますしね。

声優を続ける条件はメンタルが強く
精神的に折れないこと

若い人たちに、一つアドバイスをするとしたら「コミュニケーション能力を磨くこと」ですかね。これを磨いて、情報のキャッチの仕方や人との関わり方も上手になっておいたほうが、生きていくうえで何かと便利です。何より引っ込み思案はよくない。「前に、前に」という気持ちをもって、プラス、コミュニケーション能力があると、役者として仕事がしやすくなるのかなと。

いろんな人とうまくコミュニケーションをとるのって、すごく大事なんですよ。人からキツイ冗談を言われてもうまくかわしたり、サラリと返したりできる軽妙さをもっている人ってすごいですよね。自分が若い頃は、人から言われたことを全部真に受けちゃっていましたから(笑)。いろんな人たちと接していくうちに「この言葉に悪意はないんだな」と気づいたり、わかってきます。そういう〝耐性〟もできてくるので、人と関わっていくことは大事です。役を考えていくうえでも、本当の人間と接していくほうがわかりやすいと思います。結局、キャラクターも〝人〟ですからね。

新人の頃、現場でダメ出しされて何度やってもうまくできなくて「外に出て考えてください」と言われて、ロビーでわあ~って泣いちゃったことがありました。あれは悔しかったな。そんな悔しさも糧にして、いろんな思いをバネにして「また頑張ろう」と思える人が、この世界に残っているんじゃないでしょうか? 先輩や同期の人たち、後輩を見渡しても、みんな多かれ少なかれ、そうやって続けてきているんだと思います。

〝声優になる〟ということも大変ですが、それを続けていくのはもっとしんどいことです。僕なんか、今でもしんどい。年々新しい人も出てきますから。続けていく条件としては、やはりメンタルが強いこと、精神的に折れないことが大事です。仕事をしていくと、演技でも、プライベートでもいろいろ大変になるときがあります。なので、肉体的にも精神的にも若いときに鍛えておくこと。いろんな人と接して、いろんな作品と出合って、いろんなことを体験して失敗して、年齢が高くなってから失敗してどん底に落ちちゃうよりは、若いうちに何かしら失敗をして、いっぱいたたかれてダメ出しされて、人間的に経験を積むのが役者としてもよいのかなと思います。

(2015年インタビュー)