【声優道】高木 渉さん

声優総合情報誌『声優グランプリ』25周年を記念し発売された、『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』が3月9日から公式サイト「seigura.com」にて期間限定で無料公開中!

アニメや吹き替えといった枠にとどまらず、アーティスト活動やテレビ出演など活躍の場を広げ、今や人気の職業となっている「声優」。そんな声優文化・アニメ文化の礎を築き、次世代の声優たちを導いてきたレジェンド声優たちの貴重なアフレコ秘話、共演者とのエピソードなど、ここでしか聞けない貴重なお話が満載。

それぞれが“声優”という仕事を始めたキッカケとは……。

声優ファン・声優志望者だけでなく、社会に出る前の若者、また社会人として日々奮闘するすべての人へのメッセージとなるインタビューは必見です。

広い世界に飛び込んでみよう

▼粘りに粘って取り付けた番組見学で たてかべ和也さんと運命の出会い
▼バイトをすべて辞めることで役者として生きていく覚悟ができた
▼アドリブを入れるのは現場を面白くするため
▼大河ドラマへの出演が恩返しになればと

【プロフィール】
高木 渉(たかぎわたる)
7月25日生まれ。アーツビジョン所属。主な出演作は、TV『ドロヘドロ』カイマン、『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』虹村億泰、『名探偵コナン』小嶋元太/高木渉、『ONE PIECE』ベラミー、海外ドラマ『大草原の小さな家』エドワーズ、映画『劇場版マジンガーZ /INFINITY』ボス、TV出演『真田丸』小山田茂誠ほか多数。

粘りに粘って取り付けた番組見学で
たてかべ和也さんと運命の出会い

僕はもともと舞台俳優になりたかったんです。高校を卒業して、少し英語に興味があって専門学校へ行ったのですが、お芝居の勉強をしたいという気持ちが強くなって退学。でも、1、2月頃の劇団の入団試験までずいぶん時間もあるし、何もしてないのももったいないなぁなんて思いながら芸能関係の情報雑誌を眺めていたら、「勝田声優学院9月期生募集」というページを見つけたんです。声優もお芝居の勉強をするには変わりないだろうから、ここで半年勉強させてもらって、それからどこか劇団を受けようって思ったんです。でも、実際に声優学校に入ってみたら、声でアニメのキャラクターに命を吹き込んだり、洋画の吹き替えをするという世界に奥深さを感じましてね。年が明けても劇団の試験を受けずに、そのまま声優の勉強を続けることにしたんです。

ある日、後に僕が所属することになるアーツビジョンの社長が勝田声優学院に一日講師としてやって来たんです。講演が終わって、僕たち生徒はそれぞれにご飯を食べに行ったりしてたのですが、帰りがけに高田馬場駅で社長にバッタリ再会しまして、みんなで一緒に帰ることになったんです。駅に着くたびに一人、また一人と下車していって、とうとう最後は僕と社長だけに……もう何を話してよいのやら(笑)。緊張しているなか、こんな機会もまずないだろうと思って「アニメの収録現場を知りたいので、どこか番組収録を見学させていただくことはできませんか?」と思い切ってお願いしてみたんです。そしたら社長が「ここに連絡してきなさい」って名刺をくれたんですよ。言ってみるもんですね(笑)。次の日からアーツビジョンに毎日のように電話を掛けました。最初のうちはどこの誰だかわからない人からの電話だからデスクからも断られる一方でね。もうダメかとへこむこともあったのですが、最後にもう1回、最後にもう1回って電話をしているうちに、デスクも社長に確認をとってくれたんですね。ほどなくして『ミスター味っ子』の収録現場の見学を許されることになりました。

そこで出会ったのが、たてかべ和也さんでした。僕にとっては運命的な出会いでした。見学を終えて帰り際にご挨拶をすると、たてかべさんが「君は、来週は来ないのか?」と言ってきたんです。僕は当然見学は1日しか許されないだろうと思っていたので「へえっ!? 来週も来ていいんですか?」って聞いたんです。そしたら「1日だけの見学で何がわかるんだ。やる気があるなら最後まで来なさい」と言ってくれて。ものすごくうれしかったですね。結局、長く続いた番組なので1年半見学をすることになりましたが(笑)、これが僕にとっては大きなスタートになりました。
毎週スタジオに早めに行って、皆さんのお茶を作ったり、灰皿を用意したり(当時はスタジオ内でもタバコが吸えました)、後片づけをしたり、何か仕事を見つけながら見学し続けました。毎回ゲストキャラがあるような番組だったので、たくさんの声優さんのお芝居を見ることができました。途中からはスタジオの中で見学をさせてもらえて、半年ちょっとくらいたってからですかね。「この役やってみないか?」って、どっちの料理がうまいか判定する労働者の役をいただいたんです。もううれしくてうれしくて。「かばやきど~ん!」って一言発したのが、僕の声優としてのデビューでした(笑)。

声優学校の先生だった水鳥鐵夫さんは「声優である前に俳優であれ」という方で、授業内容も主に戯曲を取り上げるものが多かったので、僕にとってはありがたい環境でした。いろいろ舞台のことも教えていただいて、学校卒業後は同期のメンバーで「劇団あかぺら倶楽部」を立ち上げ、水鳥鐵夫さんを演出家として迎え入れ、舞台活動をしました。僕は人に恵まれました、本当に。

バイトをすべて辞めることで
役者として生きていく覚悟ができた

僕がデビューした80年代後半から90年の頭はバブル時代だったこともあって、よく先輩について行って飲み屋で芝居の話や仕事のことなどいろいろ話を聞かせてもらいました。「次はお前が後輩をおごっていくんだぞ」って言いながらずいぶんおごっていただきましたね。監督も「お前はヘタクソだなぁ」とか言いながらもまたキャスティングしてくれて、随分育てていただきました。あの時代は今ほど声優さんも飽和状態ではなかったから、ある意味ラッキーだったのかもしれません(笑)。

もちろん声優だけではまだ生活も苦しかったので、バイトもしてました。僕は声優の仕事を入れるように、夜中に新幹線で販売されるおにぎり作りのバイトをしてたんですが、声の仕事がだんだん増えてくると、夜中も仕事してるもんだから眠くなってきて頭もボーっとしてくるんですね(笑)。生活していくにはお金も要るけど、芝居がおろそかになるのは本望ではない。そこで思い切ってすべてのバイトを辞めました。でも無収入になってみると不思議なことに、絶対に役者として食べていかなくてはという覚悟ができました。自分を売るために毎日のように事務所に行ってましたね(笑)。

当時はバトルもの、ヒーローものがはやっていて、僕もずいぶん地球と戦いました(笑)。怪獣役をやったり、雑魚キャラ役ですぐやられたり。番組レギュラーというんですが、「村人A」とか「町人B」とか毎回違う役をやったりで、週8本レギュラーをもってたときもありました。でもそれも長く続きません。1、2年もすると番組レギュラーも卒業です。今度は少しずつ名前のある役がもらえるようになってくるんですが、これが一つの山場ですね。もう新人ではないし、その役が出てこなければスタジオにも用がないわけですから、以前に比べてガクンと仕事が減っていきました。生活していけるのか、自分自身に役者としての魅力はあるのか?と不安になる日が続きました。

初めてオーディションに受かったのは『緊急発進セイバーキッズ』でした。その後、主役も何本かやらせてもらえるようになりましたが、主役というのはいわば座組の長になるわけで、台本のいちばん右に名前があるということを自覚して、率先して番組を引っ張っていかなくてはなりません。気合いが入りますね。自分で考えすぎて空回りしたり、周りへの気遣いが足りなかったり。大変だけど、それでも自分の看板番組というのはやはりやりがいがありますよね。1本の作品を作るという意味でもとても勉強になります。