【声優道】大山のぶ代さん

声優総合情報誌『声優グランプリ』25周年を記念し発売された、『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』が3月9日から公式サイト「seigura.com」にて期間限定で無料公開中!

アニメや吹き替えといった枠にとどまらず、アーティスト活動やテレビ出演など活躍の場を広げ、今や人気の職業となっている「声優」。そんな声優文化・アニメ文化の礎を築き、次世代の声優たちを導いてきたレジェンド声優たちの貴重なアフレコ秘話、共演者とのエピソードなど、ここでしか聞けない貴重なお話が満載。

それぞれが“声優”という仕事を始めたキッカケとは……。

声優ファン・声優志望者だけでなく、社会に出る前の若者、また社会人として日々奮闘するすべての人へのメッセージとなるインタビューは必見です。

「たくさんのことを教わった『ドラえもん』」

▼コンプレックスの声を活かし放送部へ 演じることが楽しくなっていった
▼喜劇を経験したことも自分の財産の一つ
▼藤子・F・不二雄先生から贈られたホメ言葉
▼おじいちゃん、おばあちゃんがマイク前に立つと小学生に変身してしまう
▼役を演じるときに必要なのはどんなことにも敏感に反応する好奇心や探求心

【プロフィール】
大山のぶ代(おおやまのぶよ)
10月16日生まれ。アクターズ・セブン所属。主な出演作は、アニメ『ドラえもん』(ドラえもん)、『無敵超人ザンボット3』(神勝平)、『ハリスの旋風/国松さまのお通りだい』(石田国松)、人形劇『ブーフーウー』(ブー)、『ダンガンロンパ』(モノクマ)ほか多数。

コンプレックスの声を活かし放送部へ
演じることが楽しくなっていった

私が役者になろうと思ったきっかけは、高校時代に母が亡くなったことですね。これから一人で生きていくためには、何か手に職をつけなきゃならないと思ったんです。じゃあ私に何ができるだろうと考えて思いついたのが役者という仕事でした。

皆さんも知っているとおり、私の声はちょっと変わっています。小さい頃は声をからかわれたりして、コンプレックスになっていたこともありました。でも母から「声が変だからといって、その弱いところをかばってばかりいたらもっと弱くなってしまう。声を出すような部活動をしなさい」と言われて、中学校では放送研究会、高校では演劇部に所属していました。最初はバカにする人もいましたが、毎日のように校内放送で話しているうちに誰もからかわなくなりました。そういう部活動を通して、演じることが楽しくなっていったんです。それに、定年退職がないし、年をとっても続けられる、役者の仕事は元気であれば一生続けられますからね。それでまずは基礎から学ぼうと思って、俳優座の養成所に入ったんです。

養成所の入所試験も大変でしたが、入ってからはもっと大変でした。その頃の劇団俳優座養成所は養成期間が3年間だったんですけど、最初は50人いた同期生がどんどん減っていくんです。これ以上勉強しても伸びないと判断された人は、「もう辞めなさい」と肩を叩かれたんだそうです。本人がどんなに勉強したくても教えてもらえない。そうはなるまいと思って必死で頑張りました。先生は超一流の方がそろっていましたので、授業の内容もかなり高度だったんですが、とにかく必死で食いついていこうと思っていました。

喜劇を経験したことも
自分の財産の一つ

私は働きながら養成所に通っていたので、生活も苦しかったですね。父は私が演技の道に進むことに反対していたので、「役者になるなら出て行け!」と言われたんです。それで家を出たんですが、応援してくれる兄からの仕送りだけではとても生活できないので、さまざまなアルバイトをしていました。養成所の先生のお宅で、家政婦みたいなこともしましたね。朝、先生のお宅にうかがって朝食を作って、その後、洗濯をしながら台所を片づけて、掃除をして、といった仕事です。当時は今のような洗濯機はありませんでしたから、洗濯物はたらいに入れて足で踏んで洗うんです。母が生きているうちに料理や洗濯、裁縫、和服の着付けなど一通りの家事は教わってきましたが、こんな形で役に立つとは思いもしませんでした。役者の仕事もそうなんですが、人生で覚えておいてムダになることなんて何一つないと思います。

私が劇団俳優座養成所にいた頃に、ちょうどテレビ放送が始まりました。それまでは映画か舞台かラジオドラマしかなかったのに、テレビが始まったことで役者の仕事が飛躍的に増えていったんです。なかには「映画じゃなくちゃイヤだ」「舞台を中心に活躍したい」と言う人もいましたが、私は来た仕事は何でもやろうと思ってました。だから、役者の仕事の幅が増えた時期に当たったのは、運が良かったんですね。『ドラえもん』での私しか知らない人には信じられないかもしれませんが、俳優の渥美清さんやハナ肇さん、フランキー堺さん、落語家で先代の林家三平さんなどと一緒に、喜劇のようなこともやっていたんです。もちろんそれと同時に、舞台でシリアスな役をやったりもしました。ときには「あの子は新劇出身なのに、やることは喜劇人のようだ」と言われましたが、いろいろな経験を積ませてもらえたのは私にとっての財産になりましたね。

そのうちに、「あなたの声は少年の役に向いている」と言われて、洋画の吹き替えをすることになったんです。そのすぐ後に人形劇『ブーフーウー』のブーの声を担当したんですが、それがきっかけになって次第に声の仕事が増えてくるようになりました。