声優総合情報誌『声優グランプリ』25周年を記念し発売された、『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』が3月9日から公式サイト「seigura.com」にて期間限定で無料公開中!
アニメや吹き替えといった枠にとどまらず、アーティスト活動やテレビ出演など活躍の場を広げ、今や人気の職業となっている「声優」。そんな声優文化・アニメ文化の礎を築き、次世代の声優たちを導いてきたレジェンド声優たちの貴重なアフレコ秘話、共演者とのエピソードなど、ここでしか聞けない貴重なお話が満載。
それぞれが“声優”という仕事を始めたキッカケとは……。
声優ファン・声優志望者だけでなく、社会に出る前の若者、また社会人として日々奮闘するすべての人へのメッセージとなるインタビューは必見です。
チャンスに備えるためには
▼切符売り場での声色が最初の声優としての仕事!? ▼声優は半人前の役者がやる仕事だと思われていた ▼若いうちからさまざまなものを見て自分の中の引き出しを増やしておくこと ▼技術が拙い時代だったからこそたくさんの経験を積めた ▼誰でも言葉をしゃべるからこそ声優の仕事は難しい ▼ライフワークにしていきたい『声優口演』ライブ
【プロフィール】
羽佐間道夫(はざまみちお)
10月7日生まれ。ムーブマン代表取締役。『スーパーテレビ情報最前線』『皇室特集』『エブリィ特集』『ズームインサタデー』『全国警察追跡24時』などのナレーション、ロバート・デ・ニーロ、ポール・ニューマン、シルベスター・スタローン、ディーン・マーティンなどの吹き替えで活躍。レギュラー番組多数。イベント『声優口演』の企画総合プロデューサーとしても活動中。
切符売り場での声色が
最初の声優としての仕事!?
僕は幼稚園の頃から人前に立つのが好きで、学芸会などでは必ず舞台に立っていました。小学生になると、全校生徒の前で創作童話を朗読したりしてね。それで中学に入学すると、演劇部に入ったんです。当時の僕の目標は、宇野重吉さんや滝沢修さん。そういう役者になりたいと思っていました。といっても、若い人にはまったくわからないかもしれません。何しろ先日「今度、若山弦蔵と一緒に出演する」といったら、「若山弦蔵さんて、どなたですか?」と聞かれたくらいだからね。声優の世界も、何かにつけてテレビに出演していないと、すぐに忘れられてしまうんですよ。
それで僕は役者を志して舞台芸術学院に入り、卒業後は新協劇団(現・東京芸術座)に入団しました。新協劇団には薄田研二さんっていう役者がいて、よく中村錦之助さんとコンビで時代劇に出ていた人なんだけど、その薄田さんに育ててもらったんです。でも役者なんて、本当に食えないんですよ。悲惨な生活をしながら芝居をやっていたんです。金がなくて靴が買えないから裸足で出歩くんだけど、そのままだと浮浪者と間違われて警官につかまっちゃうんで、裸足には見えないよう足の甲に草履の鼻緒を描いていました(笑)。地下鉄の電車賃を節約するために上野から田原町まで歩いて、浮いたお金で焼きそばを食べたりね。今の人には飯が食えない生活なんて想像がつかないんでしょう。僕らの時代は、役者を志した者のほとんどが食えなかった。だからみんな、いろいろなアルバイトをしていました。
僕がしていたアルバイトは、神田須田町にあった立花亭という寄席の切符売りでした。テケツ箱と呼ばれる切符売り場は、壁にようやく手が入る程度の穴が空いていて、そこから入場料や切符のやりとりをするんです。当時の寄席は酔っぱらい客が多かったもので、ふざけてこちらの手を引っ張ったりするんですよ。そういうときに女性の切符売りだと評判がいいかと思い、高い声で「いらっしゃいませ」「やめてください」なんて言っていました。今から考えたら、それが最初の声優の仕事かもしれません(笑)。
声優は半人前の役者がやる仕事だと思われていた
立花亭では、古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭圓生といった名人と呼ばれる落語家の方々と親しくさせてもらいました。その話術の巧みさは、今でも僕の胸に残っています。思い出として美化されていることもあるとは思いますが、彼らを超えるような人にはついぞ会ったことがありません。演劇の世界でいえば、「徳川夢声、安藤鶴夫の右に出る者なし」といった感じかな。安藤鶴夫さんは演劇評論家で戯曲家なんだけど、この人のナレーションは素晴らしくて、本当に感動しました。そういう世界に魅せられて、役者を志したんです。
そんなまったく食えなかった修行時代、僕の幼なじみで吉永小百合さんの夫になった岡田太郎さんという方がいるんですが、その岡田さんが文化放送に勤めていたことから、僕に「ラジオドラマに出てみないか」と声をかけてきたんです。ラジオドラマは短時間でそこそこお金になるので、わりのいいアルバイトとして出演していました。でもまだ駆け出しだったので、東野英治郎さんから「こんな下手な役者と一緒にやりたくない」って言われちゃって、へこんだりもしました。そのうちに、僕の出ているラジオドラマを聴いた人から、外国映画の吹き替えをやってみないかという話があったんです。それで、『ホパロング・キャシディ』という西部劇の吹き替えをすることになりました。
当時の吹き替えは、聞くも涙、語るも涙の物語でね。その頃の技術では今のように一部の音声だけを録り直すなんてできなかったので、一言でもトチったら最初からやり直しなんです。収録しているスタジオ内も、時間がたつごとに緊張していってね。30分の収録のうち、28分が過ぎたところでトチってしまい、ボコボコに殴られたこともありました(笑)。放送局としては、本当は邦画をテレビで流したかったらしいんですが、松竹・東宝・大映・新東宝・東映という大手映画会社が結んだ5社協定というのがあって、「テレビは映画界のライバルだ」とばかりに作品を提供してくれなかったんです。それで海外ドラマが続々とテレビで流されるようになり、吹き替えの仕事もどんどん増えていきました。そのころは声の仕事をしている人なんて、300人くらいしかいなかったんじゃないかな。おかげで僕も「またやるの?」なんてぼやきながら、1日に3本くらい吹き替えの仕事をしていました。声優という言葉はすでにあったと思うけど、NHK放送劇団のようにラジオドラマを専門にやる人たちを指す言葉でね。放送局ごとにそういうラジオドラマを演じる劇団を抱えていましたが、新劇などの舞台役者からは声優なんて半人前のように見られていたんです。