【声優道】古川登志夫さん

声優総合情報誌『声優グランプリ』25周年を記念し発売された、『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』が3月9日から公式サイト「seigura.com」にて期間限定で無料公開中!

アニメや吹き替えといった枠にとどまらず、アーティスト活動やテレビ出演など活躍の場を広げ、今や人気の職業となっている「声優」。そんな声優文化・アニメ文化の礎を築き、次世代の声優たちを導いてきたレジェンド声優たちの貴重なアフレコ秘話、共演者とのエピソードなど、ここでしか聞けない貴重なお話が満載。

それぞれが“声優”という仕事を始めたキッカケとは……。

声優ファン・声優志望者だけでなく、社会に出る前の若者、また社会人として日々奮闘するすべての人へのメッセージとなるインタビューは必見です。

名優が見せる”プラスアルファの演技”

▼気が付いたらいつの間にか声優になっていた
▼アニメの仕事のきっかけは、入った劇団の座長さん
▼演じた役は自分でも把握しきれないほど作品に出会うごとに演技の幅が広がった
▼寝る間を惜しんでやりたいことをやった 
▼完璧だと思えるまで練った演技プランの上に自分ならではの何かをプラスしていきたい
▼演技をするときは自信を持ちつつも慢心になってはいけない

【プロフィール】
古川登志夫(ふるかわとしお)
7月16日生まれ。青二プロダクション所属。主な出演作は、『ドラゴンボール』シリーズ(ピッコロ)、『ONE PAECE』(ポートガス・D・エース)、『機動警察パトレイバー(篠原遊馬)、『うる星やつら』(諸星あたる)、『機動戦士ガンダム』(カイ・シデン)、洋TV『白バイ野郎ジョン&パンチ』エリック・エストラーダ(パンチ)、洋画『バッドマン フォーエバー』ジム・キャリー(リドラー/エドワード)など多数。

気が付いたらいつの間にか声優になっていた

僕は中学1年の時から児童劇団に所属していまして、ずっと普通のTVドラマなどに出演していたんです。

まだ声優という職業がポピュラーじゃなかった頃の話ですね。TVドラマの仕事のかたわら、声の仕事もするようになって、そのうちに声の仕事のパーセンテージが次第に増えてきて、今では声優と呼ばれるようになりました。自分で「声優養成所に通って、声優になろう」と思ったわけじゃないので、いったいいつから声優になったのかと聞かれると困るんですよ(笑)。

声優という仕事をはっきりと意識したのは、30歳くらいですね。初めてアニメの主人公の声を演じることになってのことなんですが、それまでのアニメ出演作といえば「兵士1」とか「男2」などセリフが一言しかない役を2回ばかり演じただけだったりなので、アニメ出演自体が初めてのようなものですね。しかも当時はやっていた巨大ロボットアニメということで、「今までに演じたことがないような役だし、僕にできるのかな」と思ったのを覚えています。30歳になってそんな感じですから、今の若い人と比べると随分遅いスタートです。その初主演作というのが『マグネロボ ガ・キーン』というアニメなんですが、何しろ経験がないということで、収録が始まる前にほかの作品の現場を見学させてくれたんです。古谷徹くんが主役を演じていた『鋼鉄ジーグ』だったんですが、出演者がとにかく巧みな人たちばかりで「こんな器用なこと、僕にはできないな」と思いました。それでも決まっちゃったからには演じなきゃいけない。役者としてはそれなりに演技の勉強もしましたが、声優ってマイクの使い方だったり、ペーパーノイズ(※1)が入らないための工夫だったり、演技以外に必要なことが多いじゃないですか。その一つひとつのノウハウを、柴田秀勝さん、内海賢二(※2)さんといったベテランの方々に教わりながら演じていました。

アニメの仕事のきっかけは、入った劇団の座長さん

どうしてそんな未経験の僕がアニメの主役を演じることになったのかというと、海外ドラマの吹き替えで僕の演技を聴いた関係者の方が、「今度こういう作品のオーディションがあるから受けてみないか」と誘ってくださったんです。その海外ドラマの仕事も、当時所属していた劇団「櫂(KAI)」の代表・中田浩二さんが、ご自身が出演されている海外ドラマの現場に呼んでくださった縁でいただいたものでした。もし僕があの劇団に所属してなかったら、中田さんが声の仕事をされていなかったら、きっと僕は今でもTVドラマや舞台に端役として出ていたかもしれません。本当に人の縁とは不思議なものですね。感謝しています。

そんな状態で受けたアニメ作品のオーディションですが、僕自身は未経験だし絶対に無理だろうと思っていたんです。ところが、どういうわけか主役に決まってしまいました。そしてその『マグネロボ ガ・キーン』をきっかけに、ものすごい勢いでアニメの仕事が増えていったんです。一つの仕事が終わるとすぐ次の仕事が入ってきて、そのうちに週に12本くらいレギュラー作品があるという状態になってしまいました。当時はまだ劇団「櫂」に所属していたんですが、お芝居の稽古にも出られないし、舞台にも立てないくらいに忙しくなってきて、結局劇団を辞め、声優専門の青二プロダクションに移籍したんです。

でも、僕はやっぱり芝居を捨てられなくて、今度は自分で劇団を立ち上げたりもしたので、余計に忙しくなっちゃったんですけどね(笑)。僕は児童劇団上がりなので、高校生くらいのときに「これからはもう子役ではやっていけないな」と将来を不安に思ったりしたこともありましたが、それでも芝居をやめたい、もう演技はしたくないと思ったことは一度もないんですよ。それだけ、演じるということが好きなんでしょうね。