【声優道】池田秀一さん「『シャア』を演じ続ける責任」

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アニメや吹き替えといった枠にとどまらず、アーティスト活動やテレビ出演など活躍の場を広げ、今や人気の職業となっている「声優」。そんな声優文化・アニメ文化の礎を築き、次世代の声優たちを導いてきたレジェンド声優たちの貴重なアフレコ秘話、共演者とのエピソードなど、ここでしか聞けない貴重なお話が満載。

それぞれが“声優”という仕事を始めたキッカケとは……。

声優ファン・声優志望者だけでなく、社会に出る前の若者、また社会人として日々奮闘するすべての人へのメッセージとなるインタビューは必見です。

『シャア』を演じ続ける責任

▼作品の影響力の大きさで演じることの面白さを知る
▼TVドラマで感じた挫折…… 洋画の吹き替えから声優への道を歩き出す
▼「二度とアニメはやらない」はずが……  シャアというキャラクターとの出会い
▼ライバル心をもって切磋琢磨した現場 徹ちゃんとは当時あまり口をきかなかった

池田秀一さん

【プロフィール】
池田秀一(いけだしゅういち)
12月2日生まれ。俳協所属。主な出演作は『機動戦士ガンダム』(シャア・アズナブル)、『機動戦士Zガンダム』(クワトロ・バジーナ)、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』(ギルバート・デュランダル)、『機動戦士ガンダムUC』(フル・フロンタル)、『ONE PIECE』(シャンクス)、『HUNTER×HUNTER』(カイト)、映画『エデンの東』、『理由なき反抗』(ジェームズ・ディーン)、大河ドラマ『花燃ゆ』(語り)ほか多数。

作品の影響力の大きさで
演じることの面白さを知る

芸能界に入ったきっかけは、最初は遊び半分みたいなものでした。児童劇団に入っている友達が近所にいて、「今度その劇団で募集しているから君も受けてみない?」と誘われてちょっと行ってみたら受かってしまったという感じで。俳優になりたいとも特に思っていなくて、映画を見てチャンバラごっこをして遊んでいるという、その延長くらいの感覚ですよね。それに受かったといっても、落ちる人はあまりいなかったんじゃないかと思いますよ(笑)。

そうやって劇団に入ったのが昭和33年(1958年)の10月で、11月にはもう現場に出ていました。その頃はテレビの創生期で、民放は日本テレビとTBSがあったくらい。フジテレビもやっとできたかどうかという時期ですね。だからテレビというより、ラジオがまだ全盛期の頃でした。最初のテレビ出演は僕が小学校3年生のとき……といってもガヤみたいなもので、「長屋で子供が泣いている」というシーンのために呼ばれました。そのときは何が悲しいのかわからなくて、全然泣けなかったというのをすごく覚えています。それでディレクターがどうしたかというと「泣けないか。じゃあ、泣かなくていいや。横で遊んでいて」と、あっさりシーンを変えてしまった(笑)。そんなに重要な役じゃないし、どうしても泣いてなきゃいけないというものでもなかったんでしょうね。そういう意味ではゆったりとした、いい時代でした。

中学生になるとNHKの『次郎物語』というドラマを2年間やらせていただいて、映画では『路傍の石』という作品を撮りました。その頃からですね。ちょっとずつ真剣に「俳優を続けてみようかな」と思うようになったのは。自分なりに仕事の面白さを感じ始めた時期でもありました。たとえば『次郎物語』の次郎を演じていると、「次郎ちゃん大変ね」みたいな手紙が来るわけですよ。ドラマの中で苦労していると「学費が足りないのなら」といって現金が送られてきたりする。そういうことがあると、僕たちの仕事というか、演じるということは影響力があるものなんだって、ガキなりに何か感じるようになるんですよね。それで生意気にも「この仕事はバカにしちゃいけないぞ」「もっとちゃんとやらないと」と思うようになりました。

映画も面白かったですね。うちの劇団は基本的に学校を休んで仕事をするのがダメだったので、『路傍の石』は「夏休みの間に撮りますから」ということで撮影が始まったんです。まあ、だいたい1カ月ですよね。夏休みだから。でも結局、2カ月半くらいかかったんですよ。約束が違う(笑)。撮影の間は、僕は映画が初めてなものですから、とにかく「すごいなあ」と感心してばかりでした。職人の世界ですよね。当時の映画界の人たちは「テレビは紙芝居だ」と言っていましたが、それもわかるなというくらい、皆さんがこだわりをもっていて。また、スタジオの何ともいえない静寂の中に響きわたる「カチン!」というカチンコの音もよくて、あれはちょっとやみつきになりそうでした。そんななかで、僕が主役だったから、皆が待ってくれるんですよね。僕のアップ、ワンショットを撮るのに、気持ちができるまで監督も待ってくれる。でも、僕は中学生だから気持ちの作り方なんてわからないし、作ろうともしていない(笑)。今思えば、周りの大人を見て「やっているフリしなきゃなあ」なんて思っていたんでしょうね。

その頃は「声優さん」という言葉もなかったんじゃないですかね? 声の仕事もまだアニメというよりは洋画のイメージが強くて、僕も当時は『ララミー牧場』とか『スーパーマン』とか観ていました。でも、全然それには興味がなくて、別世界のものだなと思っていましたね。

TVドラマで感じた挫折……
洋画の吹き替えから声優への道を歩き出す

そんな僕が24、5歳になって、正直な話、俳優として伸び悩んだ時期がありました。周りの環境も変わっていったというか、僕が知っているディレクターがどんどん引退していくわけですよ。あまり大きな声では言えませんが、面白い番組もなくなりましたよね。あるとき、僕がびっくりしたのは、ハタチから21歳のときに出演したTVドラマで、主役の方の弟役を演じていた頃の出来事でした。そのドラマでは主役のほうの大人の恋愛と、僕らのほうの高校生の恋愛が描かれていて、あるお話で僕と彼女がケンカするんですね。「もう君とは会わない!」なんて、すごい剣幕でケンカしたのに、次の週にはもう会っている。僕は監督に「これはおかしい。和解したところが描かれていない!」と言ったんですけど、「別に君たちを描いているわけじゃないから」と言い返されて……。これはでも、正しい意見なんですよ。今はそうやってモノを作っているわけですから、それには従わないといけない。それまで僕が参加した作品では、おかしいと思ったことはいちおう聞いてくれたんですけどね……。じゃあ、いいや。こだわるのはよそうって、そういう挫折感はありました。

そんなときに、ひょんなことから洋画の吹き替えをやるようになりまして、最初はぜんぜんダメでしたね。その頃はフィルムですから事前にビデオなんてもらえないし、映像はだいたい前の日か、ひどいときは当日にリハーサルをして、みんなでいっせいに観てという感じでした。周りの方は皆さんプロだからお上手なんですけど、僕は自分のセリフを追っているうちに画面を見失って、どこをやっているのかわからなくなり、リハーサルにならないわけですよね。それで先輩にいじめられるということもなかったんですけど、声優さんというのは大変なお仕事だなと思いましたね。全然僕の世界じゃない、違う土俵だって。

そうしたら『ルーツ』という作品のオーディションがあり、運よく出演させていただくことになりました。これは大作でしたし、時間もあったので、わりとゆっくり録っていただけましたね。そのときに感じたのは「これはラジオドラマだと思えばいいんだな」と。もちろんラジオと違って自分の間が通用しないわけですけど、そこは場数をこなして慣れるしかない。だから今は、少しくらい合わなくてもいいやと(笑)。そうやって考えて周りを見渡すと、「この人たちはたしかにうまいけど、俺も場数さえこなしていけば大丈夫かもしれない」と不遜にも思ってしまったわけです。

当時、アテレコというのはランクが下の役者がやる仕事というふうに見られていましたからね。「アテレコをやるようになったら役者はおしまいだよ」みたいな風潮もありました。それに対して「何を言っているんだ、おまえたち」と言う先輩もいましたけどね。「おまえたちにできるものかよ」「こっちに来てごらん、大変なんだよ」というプライドをもっている方たちもいて、そういう方たちが今日の声優界を作ってきたわけですよね。その一方で、やっぱりちょっと卑屈になっていた人もいて、これなら僕にもつけ入る隙はあるかなと。自分も仲間になれるかもしれないというところで、声優への道を歩き出すことになったわけです。