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【声優道】水田わさびさん「運をつかむためには」

『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』が3月9日から期間限定で無料公開中!
臨時休校などで自宅で過ごす学生の方々へ向けて3月9日~4月5日までの期間で随時配信予定となっている。

アニメや吹き替えといった枠にとどまらず、アーティスト活動やテレビ出演など活躍の場を広げ、今や人気の職業となっている「声優」。そんな声優文化・アニメ文化の礎を築き、次世代の声優たちを導いてきたレジェンド声優たちの貴重なアフレコ秘話、共演者とのエピソードなど、ここでしか聞けない貴重なお話が満載。

それぞれが“声優”という仕事を始めたキッカケとは……。

声優ファン・声優志望者だけでなく、社会に出る前の若者、また社会人として日々奮闘するすべての人へのメッセージとなるインタビューは必見です。

運をつかむためには

▼声優を志したきっかけは『ドラゴンボール』の野沢雅子さん
▼先輩の代役で役者デビュー!! 芝居の楽しさに目覚める
▼慣れない現場をフォローしてくれた先輩方「声優業界って温かい」
▼舞台がきっかけで受けた『ドラえもん』のオーディション
▼『ドラえもん』を演じている実感が湧かず「いつクビになるんだろう?」とおびえた
▼チャンスはどこに転がってるかわからない! どんどん外に出ていって」
▼バイト、劇団、声の仕事、育児の〝4足のわらじ〟をはいて……

【プロフィール】
水田わさび(みずたわさび)
8月4日生まれ。青二プロダクション所属。高校卒業後に劇団すごろくに所属し、舞台女優として活躍。96年より声優の仕事を始め、05年にアニメ『ドラえもん』のドラえもん役に抜擢される。ほかの出演作に『こてんこてんこ』(ねこうもり)、『忍たま乱太郎』(福富カメ子)、『あたしンち』(川島)、『Yes!プリキュア5GoGo!』(メルポ)ほか多数。

声優を志したきっかけは
『ドラゴンボール』の野沢雅子さん

初めて声優に憧れたのは中学3年生のとき。ちょうど『ドラゴンボール』がはやっていた頃でした。私はあまりアニメを観なかったんですけど、唯一『ドラゴンボール』は、部活から帰って来て塾に行く前にご飯を食べながら観ていて、すごく好きだったんです。あるとき友達から野沢雅子さんの写真を見せられて「この人が悟空の声をやってるの!? 男の子じゃないんだ!」と衝撃を受け、そこから「こんなに素敵な職業があるんだ!!」と一気に声優に目覚めました。中学時代の文集にも「野沢雅子さんが大好き!!」と書いていた覚えがあります。

高校を卒業したら「上京して声優を目指そう」と考えていました。親からは上京するのを反対されましたが、横浜に住んでいた叔父が「僕が近くにいるから、大丈夫だよ」と助け舟を出してくれました。それがなかったら上京は厳しかったと思います。結局、「4年の間に何もつかめなかったら諦める」と親と約束して上京することになりました。

上京した私は、緒方賢一さん、キートン山田さんらがいらした劇団すごろくに入団しました。オーディションは特になかったです。私が劇団すごろくの芝居を観に行って、その芝居の打ち上げの居酒屋が面接みたいなものでしたね(笑)。

そこではいろんなことを聞かれました。まず「今日の芝居はどうだった?」から始まって、「アルバイトは何してる? 劇団に入ったら維持費は払えるの? 大道具や衣装など裏方の仕事は何ができる? 歌は好きなの? 着物は着られるの?」とか。そんな〝面接〟をクリアして、最初は裏方のスタッフとして、劇団すごろくで働くことになりました。

先輩の代役で役者デビュー!!
芝居の楽しさに目覚める

劇団に入ってしばらくは裏方をやっていましたが、ある事情で役を降板した先輩の代役で、突然役者デビューすることになりました。女郎の役だったんですけど、色が白かったことと、「この子は毎日来ているから、役者の動きがわかるんじゃないの?」と思ってもらえたのかもしれません。ただ、このことがなかったらずっと裏方だったかもしれないので、今思うと大きな転機でした。

バタバタと初舞台が決まって、本番までの時間も少なかったので、「とにかくやらなきゃ」という感じで稽古に入りました。女郎の役ですから、(相手役の人に)胸元に手を入れられたりするシーンもあったんですね。当時まだ20歳くらいでしたから、稽古のときはすごく恥ずかしくて「ヤダな?」って思っていました。でも本番の舞台に上がって照明を浴びると、まったく恥ずかしさがなくなって、「楽しい!!」って思えたんです。「一つの役を演じるって、こんなに気持ちいいことなんだ」って。不思議ですよね?。そのうちスタッフさんたちから「おまえ、胸、見えちゃうぞ!!」って注意されるくらい(笑)、どんどん大胆に演じるようになっていました。

初舞台で芝居の楽しさを知った私は、その後も裏方をやりつつ役者として舞台に立つようになりました。自分の劇団だけじゃなく、よその劇団の仕込みを手伝いに行って、その劇団の芝居をタダで観せてもらったりもしていました。「毎日のようにタダで芝居を観られて、ラッキー!!」って(笑)。その頃は芝居が面白くて、どんどん芝居にのめり込んでいきました。

慣れない現場をフォローしてくれた先輩方
「声優業界って温かい」

声優の仕事をやるようになったのも、舞台がきっかけでした。劇団の舞台に立っていたときに、たまたま客席にたてかべ和也さんがいらっしゃって、私に声をかけてくださったんです。私はそのとき、顔を茶色に塗って馬の役をやっていたので、最初は名前も覚えてもらえず、「馬」って呼ばれていました。飲み会の席でも「馬、酒つげ」って(笑)。あるとき「太った男の子役のオーディションがあるから、受けてみない?」と言われてアニメのオーディションを受けたんですが、それが初めての声の仕事でした。1996年のことです。

声の仕事なんてまったく知らなかったですから、最初は戸惑いました。舞台と違って音を立てちゃいけないし、マイクのどこに立って、台本をどう持ってやればいいのか、何もわからなかった。運よく緒方賢一さんと同じ現場だったので、「こうすればいいから」って全部教えてもらいました。私は本当に現場に恵まれていて、先輩方から教えてもらいながら一つひとつ仕事を覚えていきました。声優さんの養成所に行けなかったけど、そのぶん、現場で先輩方から直接教わることができたのはラッキーだったと思います。

現場が終わって飲みに連れて行ってもらったときも、「わさちゃんは(支払いは)いいから」と、先輩方からよくおごっていただきました。あるとき、長尺の外画のお仕事があって、共演の皆さんと張り切ってお昼ご飯を食べに行ったはいいけど、財布を開けたらほとんどお金がなかったことがありました。「やばい! なんでご飯食べに来ちゃったんだろう?」と焦りましたが、そのときも「いいよ。今日はみんなで水田さんのぶん、払おう」って先輩方にお世話になりました。皆さん、すごくいい方ばかりで、私にとって怖い先輩はまったくいなかった。「声優業界って、なんて温かいんだ」って思いましたね。

舞台がきっかけで受けた
『ドラえもん』のオーディション

私の声優人生の中でいちばん大きな転機となったのは、やっぱり『ドラえもん』ですね。私、知らない間にオーディションを受けてたんですよ。あるとき一人だけポツンとスタジオに呼ばれて、『ドラえもん』の台本のコピーを渡されて、「ちょっと、これ読んでみてくれる?」って。当時私は、男の子AとかBの役で『ドラえもん』に出ていたので、「何かあったときのためにやっとくのかな?」くらいの軽い感覚でやったんです。

それが『ドラえもん』の最初のオーディションでした。後日、あれがオーディションだったと知らされて「もっとちゃんとやればよかった?」って思ったくらい。私一人ぼっちで、「スタッフさんもどこにいるの?」って感じで、ボイスサンプルを録るよりも質素な雰囲気でした。だからリラックスできたと思うし、モノマネじゃなく自分の声でやることができました。もし気張ってやっていたら、大山のぶ代さんのモノマネになっていたかもしれません。

オーディションは何回か受けました。同じテレビ朝日さんの『あたしンち』の収録の日に、「30分くらい早めにスタジオに入ってくれる?」と言われて行ったら「もう一回、ドラえもんの声、やってくれる?」って。それが2次オーディションでした。いつもだまし討ちみたいな感じですよね(笑)。3次、4次と進むとさすがにオーディションらしくなってきて、掛け合いの芝居もやるようになりました。

そして最終オーディションに呼ばれ、お芝居をして面接を受けました。待合室で待っていたら、そこから一人いなくなり、二人いなくなり……。「受かった人は、別の部屋に行ってるのか。早く帰りたいな」と思ってたら、カチャって扉が開いて、そこにカメラがあって「あなたです!!」って。それが結果報告で、その画が夕方のニュースで流れました。ビックリしましたね。オーディションの結果って、後日事務所から電話で知らされるのが普通なので、まさか当日現場で言われるなんて思ってもいなかった。ドッキリカメラみたいな感じでした。この特殊さが、『ドラえもん』なんですかね。

後で聞いたことですけど、このオーディションも舞台がきっかけだったんです。『ドラえもん』の監督さんが、「劇団すごろくに変な女の子がいたよね? あの子の声、聴いておきたいから」って呼んでくれたそうです。『ドラえもん』のオーディションは、声優の名前、年齢、事務所など全部非公開で、音声だけでスタッフさんたちが選ぶという珍しい形でした。監督も「君が残るとは思ってなかった」と言ってましたけど、もちろん、本人もビックリですよ(笑)。

『ドラえもん』を演じている実感が湧かず
「いつクビになるんだろう?」とおびえた

2005年から『ドラえもん』をやらせていただいて、早くも10年目を迎えました。ドラえもんは国民的キャラクターなんですが、役が決まった直後は、ありがたいことにあんまりプレッシャーを感じることはなかったです。まず藤子・F・不二雄先生の原作45巻と『ドラえもん』関係の書物をたくさん読んで勉強する必要がありました。『ドラえもん』関連の取材に答えられなきゃいけないので。さらに玩具やCMなどのドラえもんの声も全部収録し直さなきゃいけなかった。あまりにも作業が多くて、それに追われて正直プレッシャーを感じている間がなかったんですね。

テレビでOAが始まっても、あまり実感が湧かなかったです。当時は「とりあえず半年続ければいいや。半年でクビになったら、それはそれで向いてなかったんだと思おう」と思っていました。それは共演者の大原めぐみさん(のび太)、かかずゆみさん(しずか)、関智一さん(スネ夫)、木村昴さん(ジャイアン)との間でも話していました。「25年間続いた番組だから、多分いっぱい叩かれるよ。半年続けられたらいいよね」って。半年続いて、1年くらいたって映画をやらせてもらったときに、初めて「よし!! 私、ドラえもんをやらせてもらえているんだ」と実感することができました。

それまでは「私はいつクビになるんだろう?」っておびえる日々がけっこうありました。アフレコ現場は皆さん温かかったんですけど、ときどき背広を着た偉いプロデューサーさんがいらして、いろいろ注意をされるんですよ。この業界、やっぱり数字(視聴率)が大事なので、数字が落ちると「皆さん、頑張ってください!!」って。それだけ注目されている作品なんですよね。まぁ、芝居を変えて数字が上がるなんてことはまずないんですけど(笑)。でもとりあえずハッパをかけられると現場がピリっとして、こっちも「はい、頑張ります!!」と答えますし、藤子・F先生の原作を読み返したり、CDで先生のお話を聞いたりして、また新たな気持ちで取り組むことができました。

そんな『ドラえもん』の現場を通して、私たちキャスト5人の絆はすごく強くなりました。5人で泣いた日もありますし、いろんな困難を乗り越えてきているので。まぁ、表向きは私が座長ですけど、実は関さんが真の座長で裏ボス(笑)。私が迷ったりつまずいたりしていると、必ず関さんが電話をくれて「わさドラだったら、こうするんじゃない?」と的確な指示をくれるんです。すっごく優しい方です。関さんとは付き合いも古いし、今一緒に『ドラえもん』をやらせてもらっているのは、私にとっては心強いかぎり。ときどき「関さんじゃなかったら、私は誰を頼ってたんだろう?」って思っちゃうくらいです。

チャンスはどこに転がってるかわからない!
どんどん外に出ていって

私は劇団すごろくで女優デビューして、もう20年になります。「この業界で長く生き残る秘訣は?」なんて聞かれることもありますけど、これは私が聞きたいくらいですね(笑)。

ただ、いちばん大事なのは「健康第一」ですかね。今専門学校で若い子たちと一緒にお芝居をやっていますけど、やっぱり「病弱な子はちょっとしんどいかな」と思います。どれだけお芝居が上手でも、年中風邪を引いてたら心配ですもんね。

私、自慢なんですけど(笑)、高校卒業まで無遅刻、無欠席、無早退なんです。〝休む〟ということを教わらなかったんですね。劇団すごろくで、先輩の代役でデビューできたのも、劇団を休んでいなかったからだと思います。「下手だけど、毎日稽古場に来てるから」と言われましたから。〝健康で、休まない〟ということは大事なんですよ。

それと、人当たりも大事です。いい人、面白い人、気が利く人、一緒にいると癒やされる人……そういう人は周りから好かれるので、チャンスをつかみやすくなると思います。さらに好奇心旺盛で、いろんなことに興味をもつこと。一つのことを深く追求するのもいいけど、役者の場合、いろんなことを広く浅く知っておくことが大切です。現場ではガヤをやることも多いけど、「野球を知らないから野球アニメのガヤができない」「競馬を知らないから、『マキバオー』のガヤができない」というのは通用しませんので。

最近の若い人たちを見て思いますけど、みんなめっちゃ芝居が上手なんです。私のほうがみんなから教えられる部分も多いですね。何でもこなせちゃうから逆に埋もれちゃうんじゃないか、器用貧乏にならないかと心配になるくらい。

ただ、芝居がうまければすべてOKというわけでもないんです。専門学校を卒業した優秀な子が、あるプロダクションの預かりから正式所属に上がれなくて、「わささん、上がれませんでした」と言ってきたりするんですよ。私も「こんな上手な子でも上がれないんだ。何でだろう?」と思ったりします。すごく芝居がうまくても、その人と似たタイプの人が同じ事務所にたくさんいたとしたら……多分入れないですよね。そういう運とかタイミングというのも、すごく大事なんだと思います。

こんなこと言ったら申し訳ないですけど、私なんて運だけでここまで来ましたから(笑)。誰とどのタイミングで出会うか、というのはすごく大事なんですね。私の場合は、舞台きっかけが多かったです。劇団すごろくの舞台に出て、たてかべ和也さんと出会って声優になれましたし、『ドラえもん』の監督に観てもらってオーディションに呼んでもらえました。ほかには、養成所でうまくいかなくて居酒屋でバイトしていたら、お客で来た先輩に「バイトしてるの? もったいない。舞台に立ってみない?」と声をかけられて、舞台に出て事務所に入れた、という人も実際にいます。本当に、チャンスなんてどこに転がっているかわかりませんから。

だからネットやゲームばかりやってないで、どんどん外に出ていったほうがいいと思います。私、子供が生まれてからもバイトに行ってましたもん。だって、事務所から仕事の電話を、家でず?っと待っていてもしょうがないですから。子供を産むとそれだけブランクが空いて忘れられているんだから、電話を待ってるだけじゃダメです。無理してでもお芝居を観に行ったり、「小さい役でもいいから」と舞台に出たりするほうがいいと思います。

バイト、劇団、声の仕事、育児の
〝4足のわらじ〟をはいて……

私は出産した後、子供を連れて稽古場に通って舞台で復活しました。新人の頃はバイト、劇団、声の仕事の〝3足のわらじ〟をはいていましたけど、子供を産んでからは、バイト、劇団、声の仕事、育児の〝4足のわらじ〟をはくようになりました。出産後に「もういいや」と落ち着いちゃって、ただ事務所からの電話を待つだけだったら、もしかしたら今の私はいないかもしれない。出産後も仕事をしたい気持ちはありましたし、「自分は結婚して子供を産むために東京に来たわけじゃない」と思っていたので、やっぱり仕事をしようと。正直悩みましたけど、冷静に考えて結論を出しました。女性なら誰もが一度は通る道だと思います。家庭をとるか、仕事をとるか……どちらも正解だと思いますけど。

母親になって、仕事にもいい影響がありました。たとえば『ドラえもん』を子供と一緒に観ていると、「子供って、こういう描写が好きなんだ」といちばんリアルに視聴者の反応を見られるんですね。そのあたりは助けられています。また子供は本を読むとき、独特の節回し(※1)をするんですよ。大人にはできない、子供にしか出せない節回しがあるんです。なので、うちの子を見て「子供の役が来たときには、こうしよう」と研究していました。

私、2年前に無理をして年3本も舞台をやったんですけど、私が舞台をやると誰かに子供を見てもらわなければならないので、すごく迷惑をかけるんです。それがわかったので、今はちょっとお休みしています。でも、またチャンスがあれば舞台に立ちたいと思っています。今の私があるのは、本当に舞台のおかげ。だから舞台には感謝しているし、忘れたくないんです。

※1:歌謡や語り物などの調子や抑揚の変化のこと

(2014年インタビュー)