声優ユニットの走りとなった『N.G.FIVE』の思い出
『鎧伝サムライトルーパー』からは「N.G.FIVE」というユニットも生まれました。当時、『鎧伝サムライトルーパー』がテレビ局のミスで二重放送されてしまうという前代未聞の事件があったんです。それが新聞に載ったときに見出しに「人気アニメ」と書かれていたので、世間の人が人気だと勘違いしたんじゃないかと僕は思っているんですけど(笑)、何となく徐々に人気が出てきている手応えを感じていました。それでOVAシリーズを2本作ることになったんですが、放映終了から半年間ほどの時間が空いてしまうので、その間にせっかくの人気を落とすのはまずいという話から、じゃあ何かやるか、で始まったのが「N.G.FIVE」です。
トルーパーチーム最年長の竹村拓さんが中心になって、事務所のしがらみなど関係なく自分たちで創作活動ができるユニットを作ったんです。それが急にドッカンと人気が出ちゃったものだから、事務所も困ったと思いますよ。事務所側から仕掛けた企画だったら対応できたかもしれないけど、誰も知らないところで急に人気が出ちゃったし、ジュニア所属の声優をどう扱ったものかノウハウもなかった時代ですからね。それでも僕は仕事があることがうれしかったです。
今では事務所を越えた声優ユニットもたくさんありますが、当時は前例がないことだったので、僕は「こんなユニットをやりたいんです」という企画書を作って事務所に持って行ったんです。そのころの青二プロダクションの専務が「次代を担う若手を育成するべきだ」という信念をもっていらっしゃった方で、「前例もないし、いろいろなところに迷惑をかけるだろうことはわかっている。けれど若手がこういう話を持ってくるようでなければ、この先の声優業界はない」と背中を押してくださったんです。まあ一足飛びに専務に話を持って行っちゃったせいで、後からマネージャーにガッツリ締められましたけど。そのうちにさまざまな大人が入ってきて、CDを出すとかビデオを撮るとかいう話になっていきました。途中までは僕らも楽しくやっていたんですが、オトナの事情が絡んでくるとどうしてもギクシャクするじゃないですか。そのまま続けていったら個人個人がバラバラになって終わるのが目に見えていたので、ケンカ別れする前に解散ということにしました。だから活動期間は2年弱とかなり短いんです。
自分なりに試行錯誤して役作りしたのでファンからの励ましの声はうれしかった
僕のことを「下積みもせずに最初から売れて、その後も二枚目の役ばかり演じている」と思っている方もいるんですが、バカにされ、蔑まれ、地の底をはいずるような思いもしながらやってきたことが、何とか形になっているだけなんです。だから、テレビの前で視聴者だった頃とさまざまなものの見方も変わりましたね。僕が今も声優業界で生き残っていられるのは、その時代に「何をしたらいいのか」「どこを頑張ればいいのか」という経験を積ませてもらったからだと思っています。苦しくも楽しい青春時代でしたね。
その後、さまざまな役を演じさせていただきましたが、演じるうえでの転機になったのは『NG騎士ラムネ&40』のラムネ役ですね。ラムネの設定は小学3年生。すでに20代も中盤になった男が小学生を演じるって、いったいどうしたらいいのかと思いました。僕としてはかなり考えて演技を作っていったんですが、ファンの方がすごく好意的に受け止めてくださったんです。
僕は同時期に『ドラゴンボールZ』でトランクスを演じていましたが、子供時代の声も僕があてているんです。海外のイベントで「トランクス役を演じている」と言うと、「子供時代は誰が演じているの?」と聞かれるんですが、「それも僕だよ」と言うと「クレイジー!」と驚かれるんです。ほとんどの海外版では、青年期を男性声優、少年期を女性声優が演じてるようなので、両方とも一人で演じているというのが信じられないようですね。でも実はどんな役であっても、自分なりの挑戦をしているんです。『SLAM DUNK』の桜木花道を演じたときにも、「これって本当に草尾が演じているの?」と思った人が多かったみたいですが、ジュニアのときから、僕は自分なりに試行錯誤して悩んで考えて役作りしてきたので、もっと褒めてほしかったんですよ。『AKIRA』のオーディションに受かったときから、ずっと下手くそなりに頑張ってきたという想いがあったので、できれば事務所の人などの身内に褒めてもらいたかったんです。なかにはずっと見ていてくれた人もいるだろうし、評価もしてくれていたとは思うんですが、やはり言葉として聞きたいじゃないですか。そんなとき、ファンの方からの声だったりお手紙だったりというのが、僕にとっては本当に救いでした。