【声優道】岩田光央さん「表現者に必要な二つの柱」

『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』が3月9日から期間限定で無料公開中!
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アニメや吹き替えといった枠にとどまらず、アーティスト活動やテレビ出演など活躍の場を広げ、今や人気の職業となっている「声優」。そんな声優文化・アニメ文化の礎を築き、次世代の声優たちを導いてきたレジェンド声優たちの貴重なアフレコ秘話、共演者とのエピソードなど、ここでしか聞けない貴重なお話が満載。

それぞれが“声優”という仕事を始めたキッカケとは……。

声優ファン・声優志望者だけでなく、社会に出る前の若者、また社会人として日々奮闘するすべての人へのメッセージとなるインタビューは必見です。

表現者に必要な二つの柱

▼小学校4年で気づいた「演じることが楽しい」という気持ち
▼志した役者と美術の道は今思うと父の影響が大きかった
▼ドラマの仕事と声優の仕事 どちらを選ぶかジレンマを感じていた
▼やるからには本職の人と対等に 自分のもてるものすべてを使って発信する
▼僕は神経質かと思えば大胆なところもある そうやって自分自身を観察することが重要
▼表現者にいちばん必要なのは「好き」という気持ち

【プロフィール】
岩田光央(いわたみつお)
7月31日生まれ。青二プロダクション所属。主な出演作はTV『斉木楠雄のΨ難』斉木國春、『ドラゴンボール超』シャンパ、『ONE PIECE』イワンコフ、『頭文字D』武内樹、『動物戦隊ジュウオウジャー』クバル、映画『AKIRA』金田正太郎、ゲーム『アンジェリークシリーズ』ゼフェル、ラジオ『スウィートイグニッション』ほか多数。

小学校4年で気づいた「演じることが楽しい」という気持ち

僕は埼玉県所沢市出身なんですが、小学4年のときに「よい映画を見る会」という団体が企画した、埼玉県在住の小学生をメインキャストにした教育映画『あすも夕やけ』という作品に出ることになったんです。僕は小学校の代表としてオーディションに参加したんですが、運良く準主役で受かって、夏休みいっぱいロケに参加しました。先生役で風間杜夫さんが参加していらっしゃったり、お母さん役で樹木希林さんがいらっしゃったりと、教育映画とはいってもかなり本格的な作品なんです。雨の中で泥んこになるシーンがあったり、ケンカをするシーンがあったりと、ロケはけっこう大変だったんですが、子供心にすごく楽しかったんです。

『あすも夕やけ』には小学生が十数人出演していたんですが、その中に劇団こまどりに所属していた熊谷誠二くんという男の子がいたんです。僕がロケの間中、熊谷くんに「面白いね、面白いね」と言っていたら、「じゃあ、うちの劇団に来れば?」と勧められました。それで、親に半年くらい「劇団に通わせてくれ」と言い続けたんです。最初は反対されたんですが、とうとう根負けしたんでしょうね。「そんなにやりたいなら、レッスンにも、仮に仕事が決まったとしても、親はいっさいついていかない」という条件を出されて、許可してくれました。今でも覚えていますが、劇団こまどりに入団した日が小学5年の5月14日のことです。それが僕が表現の道に入ったきっかけですね。それ以前は、映画に興味があるとか、演技をしてみたいなんていうことはまったく考えていなかったのに、それから今までこういう世界にいさせてもらっているというのは不思議な感じがしますね。

劇団こまどりのレッスンもすごく楽しくて、鏡の前で喜怒哀楽の表現をするというレッスンなど、一つひとつが新鮮で今でも印象に残っています。しかも、入団して1週間で仕事のオーディションに受かるという劇団最短記録を打ち立てたんです。小学生が水道施設に行ってレポートするという企画だったんですが、実は返事をするときに元気が良かったから選ばれただけだったんですけどね。その後も、樋口可南子さんのデビュー作となったドラマ『こおろぎ橋』に出演させていただいたり、『がしんたれ』というドラマに出演させていただいたりしました。『がしんたれ』は東京・目黒のスタジオで撮影していたんですが、ときには撮影が深夜2時まで続くこともありました。そのときはさすがに劇団から親に電話がいったらしくて、父がしぶしぶ迎えに来てくれましたね。でも最初の約束どおり、電車があるうちは絶対に迎えに来ないんです。レッスンや仕事帰りに電車の中で寝てしまい、終点まで行ってしまうこともありましたが、家に電話をすると「まだ電車もあるし、帰って来られる時間だよね」って言われちゃうんです。

志した役者と美術の道は
今思うと父の影響が大きかった

今から思うと、親はすごく勇気があったなと思います。僕の息子が10歳になったとき、同じことをしてあげられるのか考えたら、その場になってみないとわからないとしか言いようがありません。ただ、僕は4人兄弟の3番目なんですが、かなり小さいうちから兄弟だけで長野の祖父の家に行かされたりもしていましたから、自立心を養うということに重点を置いていたんでしょうか。僕が出演したドラマについても、観ているのか観ていないのか、いっさい何も言いませんでした。よく言われたのは「ただでさえ目立つ仕事をしているんだから、普段の生活をきちんとしなさい」ということですね。中学のときにドラマ『1年B組新八先生』に出演したんですが、『3年B組金八先生』の姉妹作ということもあってとても人気が高く、『月刊明星』『月刊平凡』といったアイドル誌に毎号のように出させていただいていたんです。そうしたら、学校で先輩に呼び出されたりと怖い経験もしましたね。そんな経験もあって、親に言われたように日常生活を大切にしようと、クラスの委員を引き受けたり、学校行事にも積極的に参加するようになりました。

そんな学校生活を送りながら成長したんですが、職業としての役者を意識したのは高校3年のときですね。許されるのであれば役者を続けたいと思ったんですが、当時自分でも役者で食べていくことは相当難しいことだとはわかっていました。それで、役者を続けていくために手に職をつけようと、東洋美術学校に進学したんです。父が休日のたびにどこかに出かけていっては、油絵で風景画を描いているような環境で育ったので、僕自身も絵を描くことが好きだったし、中高と6年間美術部にいて、役者の次に自分のやりたいこと、興味のあることを考えたときに「だったら絵はどうだろう」と思ったんです。それで高校の先生に「美大に進学したい」と言ったら、「無理だ。もう1年早く言え」と怒られました(笑)。でも、油絵では役者以上に食べていけないこともわかっていたので、東洋美術学校ではグラフィックデザインを学んで、デザイン事務所に就職しました。デザイナーの仕事は25歳くらいまで続けていましたが、何とか役者のほうだけで食べていけるという手応えがあったので、表現の道一本に絞ったんです。

自分では、好きな道を自分で選んで歩いてきたつもりですが、今から考えると父の影響が大きかったのかな。僕の父は東映に勤めていたので、夏休みや冬休みに公開される「東映まんがまつり」は必ず観せられていたんです。そのほかにも、父自身が映画好きというのもあって、まだ発売されたばかりのビデオデッキを買って、テレビ放映される映画を録画しては観るというのを繰り返していました。初めての映画に出演して、演技の勉強をしたいと思うようになる以前から、無意識のうちにそういう環境に置かれていたことが、現在の僕を作っているのかもしれません。今になって、初めてそう思います。