アニメ『ちびまる子ちゃん』の永沢くん、『サザエさん』の波平をはじめ、数多くの個性派キャラクターを演じている茶風林さん。役者を志したきっかけや新人・若手時代のエピソード、俳優・声優を目指す人たちへのメッセージをうかがいました。
[プロフィール]
ちゃふうりん●12月4日生まれ、埼玉県出身。大沢事務所所属。主な出演作は、アニメ『ちびまる子ちゃん』(永沢くん、ヒデじい)、『名探偵コナン』(目暮警部)、『サザエさん』(磯野波平)ほか。
自分を応援しくれる人とどう巡り合うか、
そしてどんな人間関係を作れるかが、成功するためのカギだと思います。
高校の演劇部、大学の劇研で演劇三昧の日々を送る
僕が役者になったきっかけは、高校時代に演劇と出合って、大学で演劇にのめり込んだことだと思います。僕の場合、プロになる、ならないということはあまり関係なくて、ずっと芝居を続けようと思っていたんですね。今は声優をやっていますが、声優であることも演じることの延長線ですから。僕の人生は、演劇と出合ってからず~っと幸せなんですよ。
話は子供の頃に遡りますが、僕は小学4年生の頃に舌を手術したんです。手術で舌もほっぺたも切ったもんだから、会話をするのに支障があって、うまくしゃべれなかったんですよ。それで中学・高校時代はちょっといじめられたりして。僕の中では思い出したくない時代ですね。
高校の時に演劇部に入ったんですが、この演劇部というのが僕にとっての逃げ場だったんですよね。演劇部はもともと女の園で、男子は少なかったし、労働力にもなるので重宝されました。演劇部に入ったのは、中学生の時に出会った少女漫画『つらいぜ!ボクちゃん』がきっかけでした。主人公のボクちゃんが演劇部で、その子に憧れて憧れて……。どんな大変なことがあっても元気なボクちゃんのようになりたかったんですね。僕にとって、すごく辛い時期に元気をもらった作品なんです。
その演劇部でお芝居をしてるうちに、すごく演劇が楽しくなりました。だけど、ちゃんとしゃべれないと役者として役が付きません。だから猛烈にリハビリを頑張りました。そして「大学に行って劇研(演劇研究会)に入りたい」と思うようになりました。
僕らの時代は、芝居をやるなら早稲田か明治か東洋だと言われていましたが、僕は東洋の経済学部に受かって、劇研(演劇研究会)に入りました。すると、もっと人生が変わりました。劇研に入ってからは稽古の仕方などいろんなことを学びました。本来大学は勉強のために行くんでしょうけど、僕は演劇をやるために行きましたから、まあ芝居三昧ですよ。何にしても好きな演劇を自由にできたので、この時代は楽しかったですね。演劇の素地は全部この時代に作られたような気がします。
演技を学び、ある日突然声優デビューを果たす!?
大学時代はあまりにも楽しくて、「この時代がずっと長く続けばいいな」と思っていました。とはいえ、やがては卒業しなきゃいけない。じゃあ、卒業後はどうするのかと考えた時に、就職というのも考えられなくて。どういう風にして生きていったら良いのかわからなくて、「とりあえず役者の専門学校に入ろう」とNHK主催の学校に入りました。
その学校は夜間で声優科だったんですが、みんなで机を並べて発声練習したり早口言葉をやったりするので、「いやいや、演技は全身でやるものだろう」と思ってました。ただ外国映画の吹き替えを体験する「アフレコ実習」の授業があって、それだけは楽しく通っていましたね。
その学校を卒業する前に、先生に「もうすぐ卒業ですが、自分は役者になれますか?」って聞いたら「なれないよ」って言うんです。何でなれないのかと尋ねると、「ここは演技のスキルを磨くための場所であって、就職を斡旋するところじゃない」と。そして「だから言ったろう。講師で来ている先生にコネを作ってチャンスをもらうんだよ」と言われたので、それならとアフレコの授業で教わった春日正伸先生がディレクターを務めるNHKの番組に見学に行ったんです。
その現場に行ったら、来る予定のキャストが一人来ていなくて、マネージャーと春日先生がすごいもめてるんですよ。その様子を脇で見ていたら、先生が僕を見て「お前、しゃべれるか?」って。そこで「しゃべれない」とは言えないので「はい、しゃべれます」って言ったら、「あそこに台本あるからやれ」って。そこで生まれて初めてプロの現場に入りました。その時、僕はプロでもなんでもないんですよ。でもそれ以来、月1回アニメや洋画吹き替えの仕事をもらうようになって、それで春日先生についていこうと決めたんですね。
そんなある日、春日先生から「お前を欲しいという声優プロダクションがいくつかあるけど、どこに行きたい?」と言われました。でも僕は声優の世界に行きたいとは思ってなかったので、どこも知らないんですよ。あ、現在所属している大沢事務所もその中にありましたね(笑)。とにかくどこも知らないので、「じゃあ、劇団新人会に行きなさい」と言われて、そこに行くことになりました。
小さい劇団で、45人くらいでバスに乗って全国を回るんですよ。きっとその時は、演劇の神様が「今あなたに必要なのは、これをすることだよ」と言ってくれてたんでしょうね。そこで前進座という歌舞伎劇団で主演の中村梅之助さんの付き人として全国を回ったり、日光江戸村で時代劇をやったり……修業時代っていうのかな? 修行している自覚はないんですけどね(笑)。まぁ楽しかったですよ。
バイト先に「茶風林2号」登場
ご主人の温かい配慮に感謝!
若手の頃は、アフレコ現場などでいろいろ失敗したこともあります。たとえば「村人A」「兵士B」などのモブは当日ディレクターから「この役をやって」と振られてやるんです。学校や養成所では自分から挙手して「やりたい」と言えばできるから、プロの現場でも積極的に手を挙げてたくさん役をやろうとしたんですよ。そしたら周りの先輩たちから「そうやって、何でもかんでも役を奪っちゃダメなんだよ」って怒られたことがあります。
ある時は、朝起きたら収録開始の時間だったことがあって。「ヤバい、ヤバい」と思って、全力で走ってスタジオに駆け込んで「すいません、すいません」ってすべての人に平謝りしました。「もういいから。兵士Bでやってください」と言われてやったんですね。その日の収録が終わって「本当に今日は申し訳ありませんでした」と言ったら、「そもそもお前の収録、今日じゃないんだよ。来週だよ。すごい勢いで入ってきて謝るから、役をあげないわけにもいかなくてさ……」だって。自分は「遅刻した」と思っていたら、それは勘違いだったという。そんな感じで、やらかしてばっかりでしたね。
そんな若手時代でしたが、「つらい」と思ったことはあまりなかったです。ただ一つ大変だったのは、芝居の公演に参加するたびにバイトをクビになること。これは当たり前の話ですけど、一つ公演があると稽古を含めて1カ月くらい出勤できなくなるので、そんなヤツを雇うお店なんてないんですよね。「今度お芝居やります」って言うと、「じゃあ、いらないよ」って言われる。そうするとまた別のバイトを探さなきゃいけない。せっかく仕事も覚えて、人間関係もできあがってきたのに、全部クリアになっちゃうわけです。
そんなわけで、ビル工事から運送屋から焼肉屋からいろんなバイトをやりました。役者に限らず何の仕事でも同じですが、その仕事でご飯が食べられるようになるかならないかのギリギリの時って、バイトはやらなきゃいけないし、でも仕事も優先してやんなきゃいけない。そこを両立させるのが一番大変なんですよ。
そんななか、すごくありがたい職場との出会いもありました。僕は割烹料理店で下働きをしていたんですが、そこのご主人は、僕が公演でお休みをしても「頑張ってこいや。またおいで」と言ってくれてたんですね。そんなある日、「お前、2階を見てみろ」と言われて行ってみたら、でっかい食洗機が置いてあって、そこに「茶風林2号」って書かれていたんです。あ、これは僕が「茶風林」という芸名になってからの話ですけどね。それで「お前、明日から店に来なくてもいいよ。あれ(食洗機)があるから。でも役者の仕事がない日は来ていいよ」って言ってくれたんです。「好きな時に来ていい」なんてお店、ないですよね! そして「お前が食べられるようになるのが俺たちのいちばんの幸せ、喜びだから。お前はまずは役者で食べることを考えろ。あとは『茶風林2号』が働いてくれるから大丈夫。でも、たまに顔出せよ。きちんと食べられるようになるまでは、ここで小遣いを稼ぐつもりでやれ」とありがたいお言葉をいただきました。ご主人の温かいご配慮に感謝、感謝です。
その「茶風林2号」が来てから、お陰様で役者の仕事も順調に増えていきまして……35歳で結婚した時にバイトを辞めました。それまでバイトしていたわけだから、長いですよねぇ(笑)。でもそれも好きでやってきたことですからね。
お芝居の仕事も入ってくるけど、バイトをしないとまだ食べられない……おそらく今役者を目指している皆さんも、そんな思いをしていると思います。そんな状況の中で、自分を応援してくれる人とどう巡り合うか、そしてどんな人間関係を作れるかということが、成功するための一つのカギのような気がしますね。
演劇に出合った時、本当にこんな楽しい世界があるんだ!? って。
食えても食えなくても、演劇のためなら何でもやろうと思いました。
役をもらうきっかけとなった「美味しんぼ事件」の真相
声優を始めた最初の頃は、通行人やガヤなどの”モブ”役をよくやっていました。その立場から一歩抜け出して役をもらえるようになったきっかけとして「美味しんぼ事件」という出来事がありました。
僕はアニメ『美味しんぼ』(‘88~’92年)の現場に毎週呼ばれて、お店のガヤなどのモブをやってたんです。するとある時ディレクターが若い僕らを集めて言うんですよ。「来週は築地の話をやるので、よく勉強しておいてください」と。これって、明らかに築地に行ってこいって話だよなと思って。勉強しようとテープレコーダーをカバンに入れて準備していました。そんな時、六本木で飲み過ぎて終電を逃しちゃってね。朝まで飲もうかとも思ったけど、「そうだ。このまま築地に行こう」とテクテク歩いて行ったんですよ。まだうっすら暗い朝方に着いて、その時やっていたカジキの競りを見ました。そこで木遣(きやり)という民謡みたいな歌や、手の符牒を使った競りの様子をテープレコーダーに録音して帰りました。
次の『美味しんぼ』の現場に行った時、「皆さんは築地に行って競りを見ましたか?」と聞かれたけど、僕以外の人は手を上げなかった。みんな築地には行ったけど、競りが終わっていて見られず、僕だけが競りを見ることができたらしいんです。それで僕は競りの状況をみんなに説明して、センターの競り師のガヤをやらせてもらいました。それ以来、『美味しんぼ』では東西新聞社の吉田とか名前のつく役、セリフのある役をもらえるようになり、「頭一つ抜け出したな」って思いました。
あの日、僕が六本木で飲んで終電を逃さなければ、こういう結果になっていなかった。ただし、酔っぱらった勢いで築地に行っただけなので、あれは努力でもなんでもない。本当、人生って運だなと思いました(笑)。
「サザエさん」の現場で見た、加藤みどりさんのすごさ
これまで声優としてたくさんの役を演じてきましたが、特に印象深いキャラクターを挙げるとすると、『ちびまる子ちゃん』(‘90年~)の永沢くん、『名探偵コナン』(‘96年~)の目暮警部、『サザエさん』(‘14年~)の波平。やっぱりこの3つになるでしょうね。
『ちびまる子ちゃん』の現場には、もともとはヒデじい役で入ってたんですよ。ある時、授業参観の回で「僕は頭が悪いから親に来てほしくないなあ」っていうセリフを入れたら、さくらももこ先生が「こんなヘンな小学生はいない!」ってすごく喜んでくださって。それで、あの唇の青い藤木くんをいじめて「君は卑怯だよ」とか言う永沢くんのキャラをやることになりました。
普通私たちは、人を妬んだり恨んだりする気持ちを表に出して生きていないじゃないですか。でも永沢を演じる時は、そういう気持ちを出そうと、自分がいじめられた過去の記憶を思い出して役に乗せていきました。永沢を演じるともう心が永沢になってしまって、すべてが面白くないんですよ(笑)。他のキャストのみんなが「収録が終わったら飲みに行きましょう」なんてワイワイやっていても、「お前ら、何が面白いんだ」「つまんない。早く仕事やれよ」って。心が永沢なので、酒飲んでても面白くないんですよ(笑)。憑依しちゃってますから。自分のつらかった過去がなければ永沢くんというキャラクターが生まれてこなかったので、今となっては人生すべて結果オーライですよね。
目暮警部はちょっとひょうきんで、主人公を助けるおまわりさん。子供の頃に観ていたアニメ『鉄人28号』に出てくる大塚署長というキャラにすごく憧れていたので、それに近い役が自分に来たと思って、とてもうれしかったです。基本的に視聴者をミスリードする役なので、みんなに「●●なんじゃないの?」と思わせておいて、実はコナン君がひっくり返すという。そんな役回りですが、とても人間的に惹かれる役でもありますね。
波平さんはオーディションで決まりましたが、オーディション会場にはそうそうたるお歴々、重鎮の方たちがたくさんいらっしゃいましたから、自分がやることになるとは全然思ってなかったです。
先代の波平を演じられた永井一郎さんが亡くなられた時、告別式で永井さんのお顔を見て「私が(波平役を)引き継ぐことになりました。力不足ですが、精いっぱい務めます」とご挨拶をさせていただきました。そういうスタートでしたね。
最初は大変なプレッシャーでしたよ。「サザエさん」の現場では僕は新米ですから、もう生まれたてのバンビのような気持ちでスタジオに行ってね。いちばん端っこに座って「よろしくお願いします」なんて言ってたら、サザエさん役の加藤みどりさんが「あなた、こっちにいらっしゃい」と言うんです。で、ご自分の使うマイクの隣のマイクを指して、「これが波平のマイクだから、あなたはこのマイクでしゃべりなさい。あなた以外の人にこのマイクを使わせないでね。あなたのマイクだからね。わかった?」っておっしゃるんですよ。アテレコの世界はみんなでマイクをシェアして仕事するので、「そんなことできるわけがない」と思ったけど、すごく強く念押しをされるので、「わかりました。頑張ります」と言って始めました。
それで緊張しながら収録していたわけですけど、しばらくしてわかるんです。誰も僕のマイクに入ってこないと。僕はどんなに緊張してドキドキしていてもワンマイクなんですよ。加藤さんは「このマイクはあなたしか使っちゃいけない。あなたのマイクなのよ」と僕に強く言ったけど、あれは僕に言うフリをして周りの人たちに言ってくれたんですね。現場でビクビクおびえている僕が先輩方の間にうまく入れるのだろうかと、心配してくださったのかもしれない。結果、誰も入ってこないから、僕は自分の仕事にだけ集中することができたんです。
加藤さんがそういうふうに仕向けてくれたおかげで、おびえなくて済みました。さすが座長ですね。本当にすごい人だなと思いました。
自分の”好き”に出会えた人は
その道に突き進んだ方がいい
これはあくまで私見なので語弊があるかもしれないですが……この世の中って「やりたくないのに我慢して仕事をして、ごほうびとしてお給料もらっている人たち」と「やりたいことをやっているけど、あまりお金にならない人たち」で成り立ってるような気がします。ただ、前者と後者のどっちを選んでもいいと思うんです。
僕は演劇に出合って人生が180度変わりました。本当にこんな楽しい世界があるんだ!? って。「食えても食えなくても、ずっとバイトをしていてもいい。演劇をやるためだったら何でもやろう」と思いました。そうして芝居を続けてきて、いろんな方との出会いがあり、ご縁があって今があるのだと思っています。
なので、自分の好きなコトがあるなら、いろいろと“できない理由”を見つけてやらないのではなく、ご飯が食べられようが何しようがやればいいんだと思います。何なら誰かに養ってもらえばいいのですよ(笑)。究極はそんな道だってあるのだから。「好きなことをやるためには、どんな卑怯な手を使ったっていいのさ。卑怯で何が悪い?」と、永沢風に言うとそうなりますよね(笑)。好きなことのためには何でもできると思いますし、“好き”であることはすべてを凌駕すると思います。僕は演劇と出合ってから、今この瞬間までずっと幸せですから。子供の頃、うまくしゃべれなかったことでいじめを受けて、何事にも自信がなくて、いつか変わりたいと思っていた。そんな自分が演劇と出会ったことで変わることができたんです。
だから自分の“好き”に出会えた人は、その道に突き進んだほうがいいですよ。声優でもいいし、舞台でもいいし、ドラマでもダンスでもいいし……何かしら自分の“好き”をずっと続けてほしいなあと思います。
自分がやる側じゃなく、見たり応援したりする側でもいいんですよ。私の友だちも「仕事がつらいつらい」と言ってても、「アルフィーのコンサートがあればすべて救われる」と言っているし。そういう“好き”を持っている人は幸せだなって思います。だから僕は、もしかしたら神様からものすごく幸せな贈り物をもらったのかもしれないですね。
インフォメーション
旨い日本酒を舐めながら朗読を楽しむ会「酒林堂」を主宰。2023年1月28日(土)、29(日)、島根県松江市テルサホールにて全3公演を開催。豪華ゲストも出演予定。詳細は酒林堂ホームページ(http://www.syurindou.com/)をチェック。
毎月第2週木曜にYouTube酒林堂CHANNELにて「呑んでばかりで何が悪い!」を配信中。
また、3月4日(土)、狂言発表会に出演(国立能楽堂)。